はじめに
はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。
江戸時代の幽霊って柳の木とセットになっていたりしますよね。
あれねぇ。
江戸の街ってやたらと川辺に柳の木を植えていたらしいんですよ。
そして夜になるとその柳の木の影が風で揺れるじゃないですか。
それを幽霊と見間違う人が頻発したらしいんですよね。
ま、今のように明るい街灯があったわけじゃないですから、無理もないんですが。
だからきっと、柳の木のように手をぶらんと前に垂らしている幽霊が日本ではよく出てくるんだと思います。
そしてこのオバケの恐ろしさって、
「あれはオバケだ!」と思考で決めつけている間だけ持続するんですよね。
その思考が、
「あ、よく見たら柳の木だったわ」
となると、その恐ろしさは消え失せるんです。
つまり、恐ろしさって思考の中で演出されているわけなんですね〜。
苦しみからの解放
さて、
いわゆる悟りだとか「コレ」だとか、
そういうのを知ると、苦しみから解放されるって言われてたりするじゃないですか。
これもねー。
このオバケの話と同じなんです。
悲しみや不安や後悔というものが一切なくなるって思うじゃないですか。
でもね。
不安ってそもそも、今ではないことについて考えているわけですよね。
後悔だってそうです。
そしてその事を考えている間だけ、苦しむわけですもんね。
その苦しみって、そのカラクリがよくわからないときは、
絶対に避けなければならないし、抑え込まなきゃならない!って思い込んでいるんですよね。
そしてもがいたりあがいたりするわけですが、
そうすればするほどに、そのるつぼにはまり込んじゃうって感じなんです。
これってね。
オバケがいる!と恐れているのと同じようなことなんですが、
カラクリが見破られると、
「ま、そりゃーそうなるわな」
って感じになるんです。
あ、柳の木をオバケと勘違いしていたなら、
勘違いしている間は怖く感じちゃうよね。
というのと同じなんですよね。
今、起こっているならそれが必然
悟りは悲しみを感じなくさせるということでもありません。
むしろ、そういった感受性は深まるまであるんです。
だから、うわーん!って悲しむわけなんですが、
ただ、この悲しみにしたって苦しみではないんです。
それを知るんです。
悲しみは愛の裏返しでもあります。
愛がなきゃ、悲しみも起きません。
だから、これは苦しみではなく、愛のイチ表現なんです。
だから思いのまま表現したら良いんです。
だって、そうなってしまっているんですもん。
その表現を抑えようとするから苦しむんです。
すべて、そのまんまで良いんです。
それは、未来永劫そのまんまでいいということではありません。
思考はそのように考えて否定してきますけどね。
今、それが起こってるなら、それはそれで良いんです。
その今は常に変わりますからね。
今、起こっているならそれが必然なんです。
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