Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

正しさと間違いの正体

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はじめに

ほいっ!
おはようございます。
タクさんです。

まーほら。
僕らってね。
何が正しくて何が間違いなのか?
これを追い求めちゃったりしますよね〜。

そして、追えば追うほどに、何が正しく何が間違いなのかがわからなくなったりしてね。
時に混乱してしまったりもするんです。

ま、この混乱の原因ってね。
正しさを見失ったからってわけじゃないんですね。

そうじゃなくて、
正しさと間違いが存在する!
というね。
その概念を信じているから混乱しちゃうんです。

だって、そんなものは無いからなんです。

「え〜そんなぁ〜!」って感じですよね。

正しい道を歩んでいきたいというのは、僕らの願いでもありますもんね。
でも、そんなものはないんです。

今日はそんな、正しさと間違いの正体について書いてみたいと思います。

 

正しさと間違いの正体

正しさと間違いというものは、どういう場面で登場するのか?
といいますと、
それは、特定のルールを採用したときです。

例えば僕らは法律で守られていますよね。
そして法律のルールを守ってやっていこうね。
という約束の元、国民と認められているわけです。

この場合は、法律を守ることが正しいとなるわけです。

また、サッカーをする場合は、サッカーのルールを守ることが正しいことになります。
ですので、ボールを手で持ってはダメなんです。
それは、そのルールが適用されている間は、間違いになるわけです。

正しさと間違いというのは、そういった特定のルールが共有されている間だけ、
そのルール内で現れるものであって、
そもそも、普遍的に存在するものではありません。

なぜならこのルールというもの自体、普遍的なものではないからです。
ルールは単なる概念であり、真実ではないんです。

なので、真実の探求に正しさと間違いというものは存在しないんですね。

なぜなら、正しさと間違いという概念は一定のルールの中でしか機能しないからなんです。
そして、ルールはあくまでも共有されたイメージであって普遍的な真実ではないんですよねん。

有ると無い

ちなみに、何が有って、何が無い。
コレはあるの?ないの?
という考えもまた、とあるルールの中でしか機能しません。
そもそも、有ると無いというものも概念に過ぎず、思考の中にしか存在しないモノなんです。

そもそもあらゆる概念は思考の中にしか存在しません。

つまり、有るものも無ければ、無いものも無いんです。

有ると無いから解放されること。
これが分離の概念からの解放であり、この解放が思考の幻想からの目覚めなんです。

正しいと間違い、有ると無い。
これらは全部、分離の概念なんです。

そもそも存在しない分離を生み出すために作られた概念上の判断基準なんです。
まさに架空のモノサシのようなものなんですね〜。

ちなみに、真実とウソというものも、正しさと間違いという分離の概念上に存在するものに過ぎません。

これらも実際には無いんです。
もっというと、有るでも無いでもない。なんです。

「私はいない」も一緒です。

私は、いるでも、いないでも無いんです。

ややこしいですね。
ただこれがややこしく感じるのは、言葉という分離を前提としたツールを使って表現しようとしているから矛盾が生じてややこしくみえるだけであって、本質はもっとシンプルなんですよね。

シンプルすぎるから、言葉が当てられないだけなんです。

これらは全て分離という幻想イメージである

なので、正しさを求めること、真実を求めること。
これらは全部、分離という概念があって初めて成り立つものであり、
逆に言うと、ぜーんぶ分離なんです。

分離のなさを分離を使って確かめようとしたって、確かめようがないんです。

なので、結局の所、わかろうとすればするほど、ハマっちゃうんですよね。
そしてわからなくなるんです。

でも面白いことに、わからないままに在ってみると、もうすでにすべての答えがココに在るっていうね。
そんなパラドックスになっているんですよね。

 

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