Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

悟りはやってくるその時を待つしか無いんでしょうか?

はじめに

はーいどうもー。
おはようございます。
タクさんです。

「悟りはその時が来ればやってくるんです」
的なね。
そういう話ってあるじゃないですか。

でね。
それを聞くとついつい僕らは、
「じゃあ、ワシに来るのはいつやねん!はよしてくれや!」
って思っちゃうもんですよね〜。

「本当に来るのか?来ない可能性もあるのか??」
とかねー。
色々と考えちゃうもんです。

でもねぇ。
「私にもその時が来るのでしょうか??」
っていう問いはねぇ。

へ?そりゃー来るでしょ。当たり前じゃん。
って感じなんですよね〜。

「おなかが減る時は来るのでしょうか?」
って聞かれたら、
そりゃ来るでしょと思いますよね。
当たり前です。

それ以上の当たり前が「その時は来るでしょ」って話なんですよね〜。

 

そもそも、来るも来ないも無い

これねぇ。
来るも来ないも無いんですよ。
まるで、私が私と待ち合わせをしているようなものといいますか、
「もうすでにそれやがな!」ってことなんですよね。

もう来ているというか、離れたことすら無いわけです。
ただ、それを見過ごしているだけなんですよね。

机の上にホコリが被っていて、元の机の色が見えず、
別のところでその机を探している。
みたいなね。
いや、もう目の前にあるよね!ということなんです。

ただ、このホコリもねぇ。
実体としてあるわけじゃないので、ずっとホコリが永続するはずがないんですよねー。
だから、放っておいたらそのうち来るんです。
来るというよりも、ココにあったことを知るんです。

とはいえ、ただ待つよりはどうにかしたいと思うのもこれまた思考ちゃんのサガではあるんですけどねー。

執着のホコリ

このホコリっていうのがね。いわゆる執着みたいなものでして、
「それはいつなの?いつくるの?私にも来るの?早くしてほしい!」
ってな感じで気にしてるっていう事自体が執着となっているわけなんです。

だから、出来ることといったら、邪魔になってるこのホコリを掃除することくらいしかできないんです。

この執着なんですが、何への執着なのか?というと思考への執着なんです。

これは、フィクション映画をみているのに、それが真実だ!という思い込みをしているようなものなんです。

夢なのに現実に感じているというのに似ていますね。

この誤った見方によって、僕らは目の前のコレから目をそらされているんです。
ホコリ掃除とは、この執着から来る思考の声に耳を貸さないことなんです。

そうすることで、自然とホコリは剥がれていくんです。

耳を貸さないだけなんですよ。
いちいちホコリを探しに行って、それを取り去ろうとすることではありません。
そうなると、それ自体が執着になっちゃいますからね〜。

あくまでも、やってくる声に対して耳を貸さない。
それだけなんです。

 

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