Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

全てのポテンシャルは無にある

はじめに

はいどうもー!
最近はどうもモノの名前を覚えるのが困難になってきた
タクさんです。
ちなみにIT系で増殖を繰り返すアルファベット3文字くらいで作られる略語はすでにキャパオーバーをしております。もう増やさないでください。

みなさんは、名前を覚えるのは得意ですか?
僕はね〜。めっちゃ苦手なんですよ。

外国語の勉強が苦手なのも、もしかしたら名前を覚えるのが苦手だからということもあるかもしれませんね。

この名前という概念は、きっと僕らが言語という能力を手に入れたのと同時ぐらいに自然発生的に現れてきたものなんでしょうね〜。

ぼくらの思考ストーリーの根幹部分にもこの概念が使われています。

あらゆるものに名前をつけることにより、
そこから区別という概念も出てきたんでしょうね〜。

きっと、モノに名前をつけるという習性を持っているのは、人間くらいじゃないでしょうかね〜?

ちなみに、僕は金魚が大好きなんですが、うちの金魚たちには名前はつけていません。
どうにも、金魚に名前はつけないほうが良いっていうジンクスがあるみたいなんです。

ーー

名前は概念である

さて、そんな名前という概念ですが、この名前という概念のせいで、僕らは結構目の前の現実って歪めて捉えていたりするんですよね。
名前はあくまでも符号にすぎず、モノそのものを表現できるものじゃないんですが、名前から来るイメージを真実と錯覚していたりするんです。

例えばですが、「山」ときいたら、何となく僕らは架空の「山」を頭の中でイメージしたりしますが、そのイメージした「山」ってどこにも存在しない山だったりしませんか?

川だってそうですよね。
川と聞いたらなんとなく見覚えのある川のイメージをつくりますが、そのイメージの川ってどこにも存在してないんですよね。

ですが、僕らは一旦何かに名前をつけると、その名前によって、モノのイメージを固定化しちゃうんです。

そして、そのモノが個別に存在しているという錯覚をするんです。

分離はイメージで作られた幻想である

例えば、空と雲は一切分かれていませんし、分離もありません。
ですが、僕らは名前という概念によってそれをイメージの中で分離しているんです。

名前によって僕らはあらゆるものを区別し整理整頓をするわけですが、
実際には、何も分かれていないんですよね〜。

あくまでも、何かが有るとか無いとか、
これは○○である。
といった考えはすべて思考のイメージのなかで区別されたものに過ぎず、
頭の中でどう分類しようが、目の前の世界には分離も区別も存在していないんです。

分離も区別もない世界を、僕らは分離というフィルターを通して掴み取っているというわけです。
そして、その区別された世界をずっとイメージしているので、それがまさに世界であると錯覚しているわけです。

これが、幻想だ〜!と言われている理由なんです。

全てのポテンシャルは無にある

そして、僕らは名もないなんでもないものについては、認識できないので、無いものにしちゃってるんです。
そして、有ると無いという分離も作っちゃうんですよねー。

でもね。
全てのポテンシャルは、この無にあるんです。

そして、有るとしているもの。これらは全てイメージの中に作られた縛りなんです。

僕らは、分離のない世界の中、分離という縛りを便宜上作っているわけですが、このイメージの縛りによって苦という演出も出てきてしまうんです。

名もない世界でリラ~ックス

なのでね。
もうありとあらゆる名前をぜーんぶ引っ剥がしちゃってね。
名もない世界でゆったりリラックスしちゃえばいいんです。

意味も意義もかなぐり捨てて、ただただ、なんでもない中でリラックスするんです。

名前と観念の世界でついたアカを落とし、イメージへの執着を落とすって感じですかね。

そうした時に、フワッと軽くなる感じがしたなら、その軽さこそが真実です。真理とはフワッと軽〜いもので出来ておるんです。

 

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