Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

【私はいない】私とはジョーカーのようなもの

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はじめに

はい!
おはようございます。
タクさんです。

皆さん、
「山!」
って聞いたら、どんなものを思い出しますか?

「川!」
と聞いたらどうでしょう?
どんなものを思い浮かべるでしょうか?

そうそう、
僕の勤め先の近所に愛宕山という山があるんですけどね。
この山、階段でちょっと登ったらもう頂上なんですよね〜。

この階段がちょっと急で怖かったりするんですけどね。

この山の標高は25メートルくらいなんだそうです。

ま、確かに低いですし、周りにはもっと高いビルがありそうですが、
それでもれっきとした天然の山なんだそうです。

山も色々あるわけでして、
そして同じ山なんてものは一つもありませんもんね。

でもこれって、よくよく考えたら、
そもそも山なんて存在しないってことになりません?

だって、一つとして同じ山なんて無いんですよ。
だったら、山なんて無いですよねぇ?

もちろん僕らが「山!」と聞いて頭の中に浮かべたイメージ。
このイメージの山ってのも存在しておりません。

ん??
山ってなんだ?
無いんじゃないのか??

ってなりますもんね。

川にしたってそうです。

僕らが頭の中で思い浮かべる川なんてものは実在しておりません。
にもかかわらず、僕らは川はあるって感じていたりするわけです。

 

ラベルと分離

僕らは見たもの全部に名前をつけ、そしてこの名前に共通のイメージのようなものを作って、分類分けをします。
そして、目の前のものを名前とイメージに置き換えて理解しちゃうんです。

今、うちでは金魚を飼っているんですが、同じ金魚というものも実はいなくてですね。
みんなぜんぜん違うものなんですよね。じゃ、金魚というものはいないわけです。

あ、別に屁理屈を言いたいわけじゃないんですよ。
ただ、僕らは目の前のものを違うものに置き換えてみてるよねー。
ということなんです。

そして、置き換えてみてるってことすら忘れちゃってるわけですね。

じゃあ、置き換えずにみるってどうすんの?
ってことなんですけどね。

僕らの置き換えって、名前から始まりますよね。
これはつまるところ、ラベルです。

そして、このラベルっていうのは、分離によってわけられたものにつけられているわけです。

つまり、置き換えないものというのは、名もなき、分離もない全てとしてみるしかありませんね。

なんでもないものであって、それでいて分離もないので、もう全てだということです。
これが自然なものの見かたなんです。

私はジョーカー

私ってのも一緒です。この私もまたラベルの一つなんです。
この私というラベルは、どんなものにもくっつきます。

思考や心、身体、信条、テリトリー、持ち物、地位、役割、生まれ、国籍・・・etc.

そして、何にくっついても、とても自然に私を装うんですよね。

そんな私から、私のラベルを剥がすと、化けの皮が剥がれます。

私と呼んでいたものが、実は身体の一部のことだったり、一つの考えだったり、
演じている役割だったり、地位だったりするわけです。

まるで忍法空蝉の術!みたいな感じでね。

私を剥がすと、私じゃないモノが現れてくるんですよね!
「あ!こいつ!私じゃない!どこに隠れた私め!」
ってな感じです。

すると、
「フフフ・・・私はここにいるじゃないか!」
って、また別のものに化けるんですよね。

私とは色んなものに化けられるけど、本体は存在しないっていうね。
まるで、ポーカーのジョーカーのようなやつなんです。

 

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