Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

思考の混乱にうろたえなくてもええねんで!

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きゅうりはどこをかじってもきゅうりの味である

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

まーよく僕は、
全てしかない!

なーんてね。
言っております。

でも、僕も私も全てなんだとしたら、
全てが二個あるじゃないか!

ってねー。
ちょっと思考が混乱しちゃうかもしれません。

それは、思考というものは、分離の概念によって成り立っている働きだから、
すべてしかない!つまり分離は存在しないというのは捉えることができないからですけどね。

べつに、僕らは全ての一部じゃないんですよね。
みんな全てそのものなんです。

これって、よくわからないかもしれませんが、
例えばね。

ものすごーく大きなきゅうりがあるとするじゃないですか。

このきゅうりってね。
どこを食べても、きゅうりの味がしますよね。

この味こそが本質だ!ということなんですよ。

つまり、一気に全部食べてもきゅうりの味。
かけらを食べてもきゅうりの味。
この味しかありません。
この味は、減ったり増えたりはしませんよね。

味こそが本質であり、きゅうりは見かけのモノでしかない。
といった感じなんですねー。

減ったり増えたり、分割したり。
そういうことってねー。
実はこの世には存在してないんですよね。

もちろんあの世なんてものもありませんし。

ですが、思考というのは、分離の働きなので、
そうしないと捉えられないから、分離のないものをあえて、
わけた「てい」にして、仮の現実を作り上げるわけなんです。

ちなみに、思考というのはあくまでも働きですので、
この働きが止まると思考で作り上げられた世界もなくなります。

僕らの人生もまた、この思考が働いている間だけ存在して、
止まるとなくなっているわけですが、
こういったものを作り上げているポテンシャル。
このポテンシャルは減ったり増えたりせず、ずっとここに存在しているんです。

 

思考の混乱

とはいえ、この感覚ってどうしてもよくわからない!どう捉えれば良いの??
ってねー。
混乱しちゃうと思います。
でも、逆にいうと、捉えるというのは、仮の分離をするということと同じことなんですよね。
でも、この感覚は分離のなさについての表現ですのでね。
捉えようがないものなんです。

つまりは、分離のないものを、どこで分ければ良いの?という問いが、
どう捉えれば良いの?ということと同じなので、
分けなきゃ良い。
つまりは、捉えなきゃ良いんだよ。
というのが、この問いの答えになっちゃうわけですが、
これもまた、思考は混乱しちゃうんです。

馬を見習おう!

というわけで、今日のオススメとしては、
馬を見習おう!
馬で在ってみよう!
ということを、オススメします。

「は?馬?なにいってんの??」
って思われますよね。

この馬というのはどの馬なのか?というと、
あの、かの有名な
「馬の耳に念仏」
の「馬」です。

僕らの思考というのは、働きでありストーリーです。
このストーリーというのは、まさに頭の中に流れる念仏のようなものです。
本来、なんの意味のない単なる音です。
頭の中の念仏は音ですらない音なんです。

馬は素直なので、意味のない念仏に意味を与えません。

そんな馬を見習って、頭の中の念仏に意味を与えないでみるんです。
ちゃんと、本来の音ですらない音として扱ってあげるんです。

これこそまさに、「あるがまま」を「あるがまま」に扱うということでもあるんですねー。

よし!馬であってみよう!と頑張ってる自分が馬鹿っぽく見えてきたら良い感じです。
それは、思いのストーリーはすべてジョークのようなものであるという本質が見えてきたということですからねー。

 

takuteto.hatenablog.com

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