Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

思考ってシールのようなもの

はじめに

へいっ!
最近は老眼がツラいタクさんです。
いかがお過ごしでしょうか?

さて、
ここではやたらめったら、思考は幻想であり、この幻想から目覚めよう!的なお話をしているわけなんですがね。

そんな幻想から目覚めたところで、別に思考が消えて無くなるわけでもありませんし、
思考がなくなるわけじゃないということは幻想も消えてなくなるわけではありません。

普段通りにちゃんと日常はやってくるわけです。

そりゃそうですよね。
何かに目覚めて、思考が消えてしまうとこれはこれで大変なことになります。

時計も読めなくなりますし、信号の意味もわからなくなります。
お金ことも考えられなくなるので買い物もできなくなりますし、
なんなら、言葉さえも失うことになりますもんね。

ですので、思考は消えません。

ただね。
思考って「ある」ものじゃないんですよね。

だって、思考に色も形もありませんもんねぇ。
だから思考ってあるものじゃないんですよ。

じゃあ、思考は起こってるんだな。
ってことになるわけですが、これもねー。

確かに起こっているわけではあるんですが、この起こってるとか起こってないっていうのも観測をして初めて成り立つ概念ですのでねー。

そして、なんでもないものを何かしらの型にはめるというのが観測だともいえますので、まさにこれって思考そのものだったりするんですよねー。

なので、姿も形もなく、観測すれば起こっているかのように振る舞うが、それはそう振る舞っているだけで、起こっていないともいえるっていうね。

起こっていて起こっていないって感じなんです。

ま、この起こっていて起こっていないというのは全てにおいてそうなんですけどねー。

となると、思考は消えないけど、そもそもあったのか?というとそうでもない、というよくわからんことになるわけです。

・思考ってシールのようなもの

とまあ、前置きがややこしくなりましたが、そんなわけでして、
幻想から目覚めたとしても別に何かが変わるわけではありませんし、思考と呼んでいた働きもまた普通に働くわけです。

で、そうなると、思考がなくなるから苦悩から解放されると思ってたのに、何も変わらないのなら意味ないジャーン!って感じたりするのも心情としてよくわかります。

ですが、
そもそも、思考がなくなると苦悩から解放されるとおもっているのもまた思考なら、
なんでもないものを苦だとか楽だ!ときめているのも思考なんです。

例えば、ものすごく精巧なシールがあるとするじゃないですか。
そのシールを壁に貼れば、それはシールではなく壁に描かれている模様のように見えますよね。
精巧なので完全に壁に馴染むんです。

これが思考で作られた世界観と似た感じなんです。

ですが、シールって一回剥がすとノリが弱まって次に貼ったとしてもちょっと剥がれかけててもう模様には見えませんよね?

今までは壁だと思っていたものが壁に貼られたシールだとバレちゃうわけです。
この壁がいわゆる事実であり、思考がシールのようなものってことなんです。

思考で作られた世界観も、そこに起こる苦楽も、事実(壁)ではなくその上に重ねられた実体のないイメージ(シール)であり、そのことを何でもないものが知るということなんです。

 

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