Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

とらえることで、とらわれる

はじめに

どもっ!
タクさんです。

まあ当たり前のことですが、僕らは「今」を生きているわけです。
未来に生きたり、過去に生きてる人はいませんからねー。

どう考えたって「今」を生きているはずなんです。
ただ、そんな「今」を生きながら、その今を見失っていたりするんですよねー。

するとこの「今」にあるイノチの活力をも見失ってしまうんです。

なーんていうか、目の前になまのイノチの躍動がイキイキと満ちているのに、そんな「今」を見失うことによって、生きていない、死んだものばかりを見続けることで徐々に心の活力もなんか灰色になってしまう。

イノチの躍動を見失ってしまうってな感じになったりするんです。

ホントは生きる活力も、希望も、元気もぜーんぶこの「今」にあるんですけどね。

毎日の日常が、目新しいこともない平凡な毎日。
ってな感じに覆われているとしたならば、もしかしたらこの「今」を思いっきり見失っているのかもしれません。

そんな時には、見知らぬ土地に旅行なんて行くと気分がガラッと変わったりするじゃないですか。
目新しいものに触れると、なんかワクワクしますもんねー。

ですが、あなたが見慣れたと思っている目の前の世界も、ホントは常に新しく躍動しているんです。

そんな「今」を自身の中心に据えると、もっと生きるを感じられますし面白いですよー。

・なぜ「今」を見失ってしまうのか?

僕らは常に「今」にしか生きていないのに、なぜその「今」を見失ってしまうのか?と言いますとねー。
この「今」は捉えられないからなんです。
持っておくこともできなければ、捉えることもできないんです。

そして、僕らって常に世界を捉えようとし、捉えた観念的な世界の中で生きているかのように錯覚するんですよねー。

これはつまり、「ごっこ遊び」をする能力をもっちゃったために、このごっこ遊びが世界だと錯覚しちゃうってことなんです。

もちろん、「ごっこ遊び」も面白いんですよ。
でもそれをずっとやってると、遊びだということが忘れ去られちゃって、心が疲れるってな感じです。

この世界はイノチに満ちた世界なんですが、ごっこの中にはイノチはありませんからねー。
遊びとしてごっこをするのなら、このイノチを感じつつごっこを遊べるわけですが、この遊びが忘れ去られちゃうと、途端に死んだ世界かのように変貌しちゃうんですよね。

・とらえると、とらわれる

そんなわけでしてねー。
捉えると、捉われるんです。

思考で捉えた世界観は、事実をイメージに置き換えられた世界なんです。
そこにどっぷりと浸かり続けると、なんか中毒のようになっちゃって、そのイメージの世界に入り込んでしまってるかのような錯覚の中で生きてることになっちゃうんですよね。

もっと原初的な、生の感覚を本当は今も常に感じているんですが、それが意識からすっぽりと抜けてしまっているような感じですかねー。

僕らは何かを感じた瞬間に「あ、これは○○だ!」と置き換えてしまってる感じですね。

そのときに、「あ、置き換えたんだなー!」ってね、ちょっとツッコミを入れてやりつつ、感じている生の感覚だけをただ感じてみる。

もうすでに感じているはずなので、それをただ味わってみるんです。

すると、「今」の原初の感覚が徐々に蘇ってきてくれますよ。
それを自身の中心に据えるんです。
うまく行くと、もうこれで完結している!ということも知れるかもしれませんよーん。

 

takuteto.hatenablog.com

 

X(twitter)もやっております。
どうかフォローしてやってくだせえ!
メッセージなどで繋がりましょ〜!

https://twitter.com/TakuTakuteto