Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

存在と現れ

はじめに

はーい。
みなさんおはようございます。
タクさんです。

風ってあるじゃないですか。
そよそよ〜と吹いたり、ゴ〜!とうなったりするあの風です。

そんな風ですが、いろんな名前があるんですよね。
春風に北風、
六甲おろしに岩おこし、
向かい風に追い風、
つむじ風にからっ風、
山嵐に地嵐。

調べてみると、数え切れないほどの風が出てきてびっくりしました。

でも、この風もねー。
必ず起こっては消えていくわけです。

風にいろんな名前をつけてはいますが、
この風はモノではありませんからねー。
存在しているのか?と言われると、そうとは言えない。

ただ、現れとして起こっているだけのものなんです。

あらゆるコトは起こっては消えていく。
だからこそはかないものでして、
これらはすべて現れなんです。

 

現れは存在ではない。

現れは、実在するものではありませんよね。
なので、それは存在とは言えません。
現れは、起こっては消えていくものであり、常に流動しており、掴み取ることが出来ないものなんですよね。

風だって現れです。
だから、持っておくことは出来ません。

現れを持っておきたい。取っておきたいと願うなら、
その願いは叶えられることはありません。

だって、取っておけるものじゃないんですからねー。

僕らは存在を錯覚している。

僕らはね。
つい、そんな現れを、存在だと錯覚しちゃってるところがあるんです。
そこをつい僕らは間違っちゃうんですよね。
だから、取っておこうとしちゃいますし、
取っておけている。持っている。
と錯覚しちゃうんです。

「私はこういう思考を持っている。」
というのも、もちろん錯覚です。

思考も風と同じような現れですし、「私」というものも、
これまた、思考の一部に過ぎないものですからね〜。

からっ風や、そよ風みたいなものです。

一応、名前というラベルを架空のイメージ内で貼り付けているつもりにはなっていますけどね。

「からっ風をひとつ持ってきて〜!」
と言われても、それは無理な話ですもんね。

ただ在ってみるとは、現れの一切を採用しないこと。

では、ただ在ってみる。とはどういうことなんでしょう?
在るとは存在ですよね。

その存在であってみる??
どゆこと??

ってなりますよね。

僕らが思考で掴み取っているもの。
これらは全て現れを型にはめたものなんです。

現れを掴み取ろうとするとき、僕らはその現れを何かしらの型にはめないと掴み取れません。

そして、この型が既知となるんです。
つまり、ハメる型をみつけること。それが僕らが何かがわかった!と思っていることだということです。

そして、型にはめた既知の中には存在は無いんです。

全ての現れが存在になる

では、在ってみるにはどうすれば良いのか?といいますと、全ての型を採用しなければ良いんです。
だって、実際にその型というものは存在していないんですもの。
存在してないものを採用して、在ってみるなんてことは出来ませんからね。

元々無い型を無いままにしておくんです。

面白いことに現れは、それを掴み取らずにいれば、その現れ全体が存在となるんですよね。
その存在は、型にはめられたものではなく、「ただ」在るものなんです。

つい型にはめたくなっちゃうんですけどね。
そうすると、全体は加工された何か
へと成り下がってしまい、全体は霧のように失われてしまうんです。

でもこの加工もまた、すべてイメージで行われるので、全てが幻想のようなものでしてね。
実際に、全体は何の影響も受けていないんです。

 

 

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