Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

顕現と根源

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

ちょっとうろ覚えなんですけどね。
たしか、中村天風さんの言葉だったと思うんですけど、
こういうのがあったんですよ。

「俺がいくら暑い熱湯をお前に注ごうとも、
お前のコップの中に水が残っているのなら、
ぬるま湯にしかならない!」

ってね。

つまり、全てを捨てて、俺の話を聞け!
って意味なんですけどね。

これねぇ。
なんかすごい上手な例え話ですよね〜。

僕もよくこのブログでは例え話をしていますが、
まー皆さんお気付きの通り、僕の例え話は下手くそです。

でも、話が上手な人って、みんな例え話が上手いですよね〜。

ただ、同時に感じたのは、人の話を聞くのとコップに水が残っているからぬるま湯になるっていうのは、よく出来た例え話では有るけど、よくよく考えたら全然関係のないものですよね。

だから、例え話というのは真実ではないんですよね。

例え話をつい納得してしまうのは、きっと人だけなんでしょうね。
動物的な感覚でその話を聞いていると、コップの水と、人の話は全くの別物に感じるはずなんですよね〜。

なんだか、この辺に、僕らが幻想を真実だと錯覚してしまうクセが隠れているのかもしれません。

僕はよく、ネコ目線で見てみたら僕らが現実だと思っていることって、嘘も甚だしいものだったりするよ〜って言ってたりするんですが、まさにそのとおりでね。

ちゃんとネコ目線で見てみると、
日本なんて国もないし、地位なんてものもないし、僕らが悩んでいるほとんどのことも無いものだったりするんです。

ネコ目線で見てみるっていうのがね〜。
ちょっと、ありのままでみる。ありのままで在ってみるに近いのかもしれません。

 

顕現を置いておく

さてさて、
そんなコップの中の水なんですけどね。

コップに水が満タンに入っていたら、もう何も入らないですよね。
ジュースを入れても溢れてしまいます。

僕らの意識っていうのもなにかに関心が向いている間は、他の関心は入り込む余地ってありません。

だから、一旦、関心を空っぽにしてやらなきゃならないんです。

思考を一旦置いておくというのもまさにそれで、
いわゆる根源に在ろうとするなら、一旦あらゆる顕現への関心は置いておかなきゃならないんです。

思考のストーリー

僕らはつねに顕現に関心を持っちゃってるんですよね。
だから、根源がかき消されているんです。

顕現とは思考で作られたイメージです。
まさに例え話で作られたストーリーのようなものです。

これが、まるで現実であるかのように振る舞っているんです。
こいつがある限り、根源は姿を現せないんです。

根源に触れるには
だから一旦、顕現への関心を空っぽにしてやらなきゃならんわけなんです。

静寂と根源

静寂は思考のおしゃべりが消えた時に現れます。
根源もまた、顕現への関心が消えた時に現れるんです。

その時にぼくらは当たり前のことを思い出すんです。

それは、あらゆる思考のおしゃべりは、静寂の中で起こっている。
そして、あらゆる顕現もまた、根源の中で起こっているということなんです。

これがいわゆる気づきなんですよね。
「それ」はどこにも行かず、常にココに在ったということです。

静寂をおしゃべりの中にもってくるわけでもなく、
根源を顕現として掴み取るということじゃないんですよね〜。

これが、何かをわかろうとするのではなくて、わからないままにしてみる。
わからないままであってみるということなんです。

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