Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

考え方の杖

はじめに

はーいどうも。
おはようございます。

ちょっと前なんですけどね〜。
山登りに行きまして。

行きはね。
結構楽に登れたんですよ。
だからちょっと油断しちゃったんでしょうね〜。

帰りはロープウェイを使う手もあったんですが、
ま〜余裕でしょ!っておもって、そのまま歩いて下山することにしたんですけどね〜。

どうにも、膝を痛めてしまって、
しばらくは杖をついて生活しておりました。

杖って、一回使い出すととても楽でちょっとクセになっちゃいますね。

というわけで、どうもタクさんです。

みなさんは登山はお好きですか??

僕も歩くのは好きなので登山も嫌いではないんですが、
下山のほうがやっぱり膝に来ますね。

でも、暖かくなってきたらまた行ってみたいなぁ〜。

 

本当にこれで正解?

さてさて、なんで登山の時の杖の話からはじめたのか?
といいますと、
やっぱり、杖って使い出すと楽なので、
どうしても使いたくなるっていうのがね〜。

どうも思考のクセにも似ているな〜って感じましてね。

もし、先の道が全く見えない状態で前に進むのって、
ものすごく怖いじゃないですか。

一寸先は闇って言ったりもしますが、
そういうときに、ちょっとした杖があるととても心強いですもんね〜。

僕らもね。
先のことは一切わからないなかを歩いているようなものです。

だから、何かしら杖のようなものを求めちゃうんですよね。

私が今歩いている方向で、本当に大丈夫なのか?
という不安を払拭するために、
いわゆる考え方の杖みたいなものを求めちゃうんです。

考え方の杖

そして、いつしか杖なしでは前に進めないっていう感覚を持ってしまったりしているんです。

つまり、これからどうするのか?をちゃんと考えておかなきゃ前に進めない。
という思い込みです。

今の方向であっているのか?それとも間違っているのか?
っていうことを常に確かめておかなきゃ、当然前に進むことなんてできるはずがない。
っていう思い込みですね。

そして、その答えとなってくれるのが、いわゆる考え方の杖なんですが、
この杖をいくらたくさん集めたとしても、結局どれが一番正しい杖なのか?
ということもまたわからなくなっちゃったりするんですよね。

「私はいない」から大丈夫だよね!とか、
「全ては完璧」なんだから、コレでいいよね!

って確かめたくなっちゃうのも、
これまた、
「私はいない」や「全ては完璧」というのを
ある種の考え方の杖として持っておこうとする思いからくるものなんです。

その杖は幻想の杖

考え方の杖っていうのは、まさしく思考そのものです。
思考を手放すのって、なんだかものすごく怖く感じたりするのは、
この杖を手放すことへの抵抗なんですよね。

まるで真っ暗の中で手がかりになってくれていた杖を手放すようなものでね。

なんだか、とてもそれは危険な気がするんです。

でもその杖ってね。やっぱどこまでいっても幻想じゃないですか。
そして、僕らも心のどこかでは、こんなの幻想だよねと知っているが故に、
常にどんなに強そうな杖を手に入れたところで、
不安って払拭されないんです。

そして、このことが不安の大元になっているんです。

「これで合っているのか?」
「何か間違ってはいないだろうか」
って何度も自分に確認しちゃうのも、この大元からくる不安なんですよね〜。
そしてこの不安が心の重たさを演出しておるというわけです。

 

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