Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

全ては常に新しいワクワクである。

はじめに

はい。
おはようございます。
タクさんです。

なんだか、僕が住んでいる地域にはやたらと犬を飼っている人が多くてですね。
朝、散歩なんぞをしておりますと、犬を散歩させている人をよく見かけます。

でね。
大体は、飼い主さんはつまらなさそうにスマホを見ながらダラダラと歩いているパターンが多いんですよねー。

それに引き換え、犬はもうワクワクして楽しそうです。

犬を散歩させる人からすると、いつもの近所の道ですのでね。
もしかしたら飽きちゃってるのかもしれませんねー。

でも犬は、「散歩行くよー!」っていうと興奮しまくって喜びますよね。

これね。
きっと犬の方が、僕ら人間のように嘘の世界に生きていなくて、ちゃんと事実の世界を捉えているから、散歩が楽しくて仕方がないんだと思うんですよ。

つまりね。
僕ら人間は、この散歩を「いつもの散歩」というありもしない枠に閉じ込めてしまっていて、いつもと一緒の道をただ歩くことだと勘違いしちゃっているんですよね。

逆に、ちゃんと事実を捉えている犬は、
常に新しい道の感触があり、新しい風を感じることができ、新しい匂いを体感できる!
そんな新しいワクワクが待っていることが、きっと嬉しくて仕方がないんじゃないか?
って思うんですよねー。

 

架空の境界

僕らは、なんでも取っておこうとするんですが、
実は、何も手に入れたことがないですし、
何も取っておくことはできないんですよね〜。

全ては、常にやってきては去っていく。
それだけなんです。

思考だけが、掴み取って取っておこうとしているんです。

空に浮かぶ雲だって、同じ雲は存在しません。
川に流れる水は常に新しく同じ水が流れることはありません。

ですが、思考はそれらをひとくくりにして雲は雲!といったように、
ありもしない枠にあてはめて、それを掴み取った気になっちゃっているわけです。
イメージの中だけでね。

この掴み取った気っていうのがいわゆる存在しない境界があるような気になっているということなんです。

分離の幻想

この境界が、分離という幻想を生み出し、
この分離の幻想が、比較という概念を生み、
この比較という概念によって、「私」という概念を作り出し、
その「私」に「足りないもの」を作り出すんです。

そして、この「足りない私」を埋めようともがくんですね。

足りないというのがそもそも幻想なので、埋めようともがき、
色んなものを手に入れた気になったとしても、何も埋められないんです。

だってね。
ぼくらって、この身一つじゃないですか。
この身体に何もとっておくことって出来ないですもんねー。

足りないという渇き

この考えという杖を頼りにしている限り、
いつまでたっても僕らはこの足りないという渇きを埋めることは出来ないんです。

にもかかわらず、僕らはこの杖を頼りにし、この杖なしでは立つことすらもおぼつかないと、思い込んじゃっているんですよね。

だから、何かを聞いても、
「つまりこういうこと?」
ってね。

ある種の考え方のレシピを常に求めているんです。

でも、考えっていうのは常に起こったことをあとから解釈しているだけなんですよね。

私がやっているのではなく、起こったことに後付けで、私をくっつけているんです。

僕らはすでにココに在る

まあこの考えという杖ね。材質がいわゆる思考だということは、
なんていうか、あるようにみえて無いものなんです。

だからね。そもそも僕らは杖を頼りにしなくても立てているんですよね。

透明の杖みたいなもんです。だからすでにちゃんと立っているのに、
杖を頼りにしてなんとか立てていると思ってるだけー。
ってことなんですよね。

だから、一回考えを置いておいてごらん?とオススメしているわけです。
すると、なーんにも自分がやっていることはない。
ただ、思考の解釈では、どうしても誰かが何かをやっているという形にしなきゃいけないから、そうしていただけなんだ。しかも後付で・・・。

ということに気づくわけです。

そして、そのことに気づき、その納得が深まるにつれて、余計な重さという呪縛が消えていって、軽くなるよ〜。
ということなんです。

 

 

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