Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

執着の元

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【はじめに】

ほい。
おはようございます。
タクさんです。

執着を手放せ!
なーんてね。
仏教なんかでは言われてるじゃないですか。
他の宗教でもそういうのは多いかもしれませんね。
スピ系でもよく言われているかな?

「執着とはむさぼりだ!そのむさぼる心を改めなさい!」

なーんてね。
そんな事言われたら、

「そ、、、そんな貧乏人みたいに扱うなー!」
「わしは、そんなに貧しくないわいっ!」

ってね。

なんだか嫌な気分になっちゃいますよね。

金を持ってる持ってないの話なら、
まー、別に金がないなら無いなりに楽しむわいっ!
ってなもんで、
もう、大金を持っててもそれほどは楽しくないよー。
っていうのは、結構バレてるので大丈夫だったりするんでしょうけど、

心が貧しい!なんて言われた日にゃ、そりゃーいい気分はしないものです。

だから、わしの心だって豊かにしたるわいっ!
ってね。
なんとか心の調整をしようとするんだけど、うまく行かない。

そうなると、
「え!もしかして、わしの心って貧しいの?」
ってねー。
なんだか、自分のダメ出し項目を変に増やしちゃったりして。

幸せになろうと学べば学ぶほどにダメ出し項目が増えるだけー。

みたいなね。
そんな本末転倒なことが起こっちゃったりしている方もおられるかもしれません。

でも、ご安心ください。
そもそも、心に貧しいも豊かもございません。

また、執着と心の豊かさや貧しさは関係ありません。

というわけで、今日は執着をテーマに書いてみたいと思います。

 

【執着とはこだわりの元】

心が貧しいとか豊かとか、そういったことにこだわること。
これもまた、執着です。

だから、
私の心はあなたよりも豊かなのよぉぉぉぉ!
みたいなね。
そんなこと言ってる人ほど、執着のカタマリだというわけですね。

そもそも、豊かと貧しいとか、これは正しくてこれは間違いとかね。
こういった尺度へのこだわりこそが、執着そのものですからねー。

では、尺度にこだわらない思考を持つというのが執着を手放すということなのか?
というと、
これもまた、執着になってしまうんですよ!

「おい!どないやねん!」

って言いたくなっちゃいますよね。

なぜなら、尺度にこだわらないようにするぜ!っていうのもまた、一つのこだわりになっちゃうからなんですよね。

つまり、執着とは、そんないろんなこだわりの大元のことなんです。

【執着の正体】

こだわりの大元とはなにか?
というと、
何でもかんでも思考で捉えようとし、あらゆる疑問点が払拭されたあとに、何かを掴み取ることができる。
っていうね。
この一連の流れは幻想なんですが、この幻想を真実だと履き違えること。
これが、執着の正体なんですねー。

だから、真実だと履き違えなければ、
別に思考がガンガン起こっていても問題ないんです。

悟りを開いたから、人が死んでも悲しまないんでしょう?
っていうのは、全然違います。

喜怒哀楽がなくなるのが悟りではありません。
むしろ、それを純粋に感じられること。
それが、悟りなんです。

そして、純粋に感じられるというのは、あらゆることを別のものに履き違えないからこそ感じられるわけです。

つまり、思考は思考と知ること。
それだけでオッケーなんです。

思考は思考だと知っていたなら、コレってどういうこと??って色々と調べたり学んだりすることは執着ではありません。

えー?どういうことー?気になるー!
ってね。色々と調べたりするのも別に執着ではありません。

ただ、この思考のストーリーを真実と履き違えること。
これが執着の正体なんですねー。

そしてこれが、正しさと間違い、良いと悪い、天国と地獄といったような分離の概念をも真実として履き違えることにつながってくるわけです。

思考ではそういう分離をするよね!と楽しむのなら、何ら問題はないんです。

 

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