Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

ルールと解釈

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

なんかね〜。
ぼくらって、なんにでもゴールというものがあるって思っちゃうフシがあるじゃないですか。
いや、たしかにね。
徒競走とかね。そういう限定されたルールの中ではゴールっていうのはあるんですよ。
それはあらかじめ、ここをゴールということにしようね!と決めてある場合ですよね。

そういうルールの中だけにしかゴールというものはないんですよ。
つまり、ルールブックの中にゴールが定められたものにしかゴールはないんですよね。

そういうルールが決められていないものに関しては、ゴールなんて無いわけです。
にもかかわらず、
「ゴールが見えない・・・」
「どうしたらゴールに辿り着くのかわからない」
といった悩みを持つ場合もあったりするんですけどね〜。

ちゃんとあらかじめ、ルールとしてない場合は、そもそもゴールなんて無いんですよね。

逆に言うと、勝手に自分でルールを作ってそれをゴールにしたら良いだけですので、
ゴールに早くたどり着きたいのなら、ものすごく簡単なところをゴールということにすれば良いだけなんですよ。

これをね〜。
妙に難しいところにゴールを置いちゃって、そこで、「ゴールが見えない」とかやっちゃうことで苦しんでいるのなら、とっととゴールを変えちゃえば良いんですよね。

見えないところにゴールを置いているから苦しいんですよ。
何がゴールかわからないってなってるからゴールが見えないんです。

そしてそもそもゴールなんて作らなきゃ無いんです。

 

解釈は変幻自在

生きてりゃ確かに色んなことって起こりますよね。
でもこの色んなことって、そもそもは解釈なんです。
解釈の仕方によってこの「色んなこと」の「色」は何色にでも変わるんですよね。

解釈の仕方というのは、言い換えると受け取り方です。

この受け取り方次第で、あらゆることは苦にも楽にもなるんです。

そして、ぼくらが起こっていると思っていることは、全て解釈ですからね〜。
結局は解釈次第、受け取り方次第なんですよね。
変幻自在なんです。

正しさはルールの中にある

でね。
解釈(受け取り方)が変幻自在だということは、
解釈に正解はないということなんです。

僕もよく頂く質問として、
「こういう場合は、この考えであってますか?」
「こうおっしゃってますけど、この場合にはどう当てはめればいいっすか?」
「これはどうしたら良いですか?」
的なね。
そういう質問をよくもらうんですが、こういう質問もね〜。
一言で言えば、どう解釈すればいいっすか?ってことなんですよね。

正しい解釈があるはずだって錯覚しているから、それを求めたりするんですけどね。
でも正解なんて無いんですよ。
この解釈ってのは全て幻想だから、そこにこだわって、解釈の奴隷にならなくてもいいんです。
つまり解釈にこだわる必要すら無いってことなんですよね。

どこかに正しい解釈があると錯覚していることが不自由さと終わらない探求を作っているんです。

ルールは幻想である

ちなみに、正しい解釈が存在する場合というのは、なにかしらのルールを採用している場合です。
このルールという幻想の中だけに正しい解釈があり、この正しさはルールの数だけあるんですよね。

だいたい、人と人がぶつかり合うのは、このルールの違いによってぶつかり合っているわけです。

このルールっていうのは、個人によって違いますのでね。
その人が聞いてきたこと、見てきたこと、そして価値観や好みや文化や性格で違ってくるんです。

そして僕らは往々にして、何かしらのルールを採用していることすら忘れてしまっていて、無意識にそのルールに支配されているんですよね。

このルールというものもまた、幻想なんです。
この幻想性が見抜かれると、あらゆる解釈の幻想性もまたあらわになるんです。

 

 

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