はじめに
はい。
どうもおはようございます。
タクさんです。
目の前にテーブルがあって、その上にコップがある!
とするじゃないですか。
これってね。
もう、否定しようのない事実である!
ってねー。
思いますよね。
でもこれって事実ではなく、共同幻想なんですよね。
共同幻想というのは、共同で「こういうことにしようねー。」
としているものです。
本当のところは、テーブルと呼んでいるなんでもないものと、
コップと呼んでいるなんでもないものがあるだけであって、
これらは別に分離していないので、
もう全てがあるだけ!コレだけ!なんです。
正解はどこに??
とはいえ、僕らは共同幻想の中で生きていますので、
その中では事実であるわけです。
この幻想は思考によって起こるわけですが、これが起こること自体は自然ですので、
ずーっと起こり続けるんですけどね。
ここで、コレは事実ではないんだー!真実はココではない別にあるんだーとしちゃうのは、これはこれで、変なことになっちゃうんです。
ちょっとややこしいですが、正解と誤りに区切ろうとすることもまた分離なんですよね。
共同幻想の中ではねー、独りよがりの幻想は否定されます。
なぜなら、共同なので、何が正解なのか?というのはとても大事なことになるんです。
だから、どうしても正解を知りたいって思っちゃうわけですねー。
そして何が正しいのか?のこだわりを持つんです。
ですが、現実は幻想で、真実はコレでを何が正しいのか?の判断の上に持ってくると、
途端に、価値という観念の色に染まってしまうんですよね。
すると途端に、この真実もまた一つの幻想になってしまうんです。
共同幻想の中では正しさが価値を持つ
共同幻想とは、まさに幻想が独りよがりではなく共通の幻想になったものですのでね。
共通のものになるからには、正しさが必要になってくるわけです。
独りよがりの思い込みなら別に何を思ってても良いわけですがねー。
共同となるとそうはいかんわけです。
なので、そこにはある種の秩序が生まれるんですよね。
そして、その秩序と、自分だけの思い込みがぶつかったときには、
そこに狭苦しさを感じたりもするんですよね。
また、同じ共同幻想を持っているモノ同士のあいだでは、
この幻想を脅かすものは敵になっちゃうんです。
なぜなら、自分が信じている幻想はより正しくなきゃいけないわけですからねー。
正しさは価値になるんです。
ちなみに本質としては幻想に価値の差はありません。
価値の差があるのは共同幻想の中だけなんです。
幻想はルールによって成り立つ
そして、この幻想はルールによって成り立っています。
このルールとは、概念のことなんですねー。
そして、この概念の価値というのは、比較によって成り立ちます。
この比較というのもまた、一つの概念によって行われるんですよね。
そして、僕らはこの比較の概念に絡め取られちゃうわけなんです。
あの人よりこの人の方が正しい!とか、
私こそ正しい!他はダメ!とか言っちゃう先生も、これまた比較の概念によるものです。
宗教や国の文化にしたってそうですよね。
ワシらの方が文化的だ!とか思っちゃったりしますもんね。
この価値というのも、幻想の中にしか存在していません。
ですが、幻想の中ではどうしても存在してしまうものでもあるんです。
幻想だって、価値あるもの
本来、価値というものは存在していませんが、これは言い換えると、
どれも価値あるものだとも言えます。
幻想だからといって軽んじてしまうなら、それは幻想の錯覚に飲み込まれているということになります。
この幻想は思考という働きの一つですので、それはそれでいいわけです。
ただ、この「在る」の感覚に目覚めてくると、そこへのこだわりが減ってくるというだけです。
ま、増えるも減るもないんですけどね。
在るの感覚に戻りやすくなるというかね。
コレしかない!ということがふに落ちるにつれて、幻想との付き合い方が楽になってくるんです。
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