Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

「私」という解釈が生み出す錯覚

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【はじめに】

ほい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

まーこの非二元のお話をややこしくしているのは、
私は思考であるという錯覚なんだと思うんですよね〜。

「私」って概念がねー。
結構ことをややこしくしてるんですよ。

「私」ってね。
当たり前にあるように感じるじゃないですか。
でも、じゃあこの「私」ってなに?
ってなると、途端にわからなくなるんですよ。

「私」は思考であって、さらには体であって、記憶でもあって、
性格でもあり、信念でもあり、心でもあり、、、。
と、
ま〜変幻自在なんですよね。

これらがごちゃまぜになってるのが「私」なんですが、
このごちゃまぜが更にややこしくしてるんですよね〜。

 

【思考が混乱するワケ】

例えばね。
私は思考であり、さらには体でもあり、心でもある!
となる場合、

これ、ものすごくややこしいんですが、
思考で紡ぎ出されるストーリーがね。
どうにも、体や心に悪影響を与えている場合。

体や心である「私」視点で見ると、思考の方を変えなければならない!
ってなるんですね。

ですが、思考である「私」視点だと、心や体を思考に振り回されないように変えなければならない。

みたいなことになって、
もう混乱がワケワカメなことになっちゃうんですよねー。

そして、両方をどうにかしようとするわけですが、
今度は、どうにかしようとすることに、「私」が危機感を感じ始めるわけです。

「どうにかしよう」とするからには、「どうにかなっていない私」がある。
つまり、問題を抱えている「私」を作り出すんですよね〜。

「私は問題を抱えている!」
「やばい!僕ピンチ!」
となって、余計に混乱に拍車がかかるんです。

そして収拾がつかなくなるんですが、「僕ピンチ!」があるもんですから、
どうにもしんどい。どうしたらいいの?
ってなるんですねー。

【「私」とは何か?】

まー、この混乱の元凶である「私」というものは何か?といいますと、
思考によって作られた観念なんです。

思考ちゃんは、この「私」を主軸にあらゆるストーリーを作るわけですねー。
また、思考の働きの一つである記憶をもとに何度も再現しちゃったりするわけです。

また、体は体を守ろうとする自然作用が働いています。
怪我をしたら、自然と治りますし、更にはここでも記憶と連携して今度は怪我をしないようにしようとします。

これらは本能的な働きです。

体や思考や心。
このどの働きも、「私」がやっているんだ!って思っちゃいがちですが、
これらに一切「私」は関与してないんですよね。

働きを思考が解釈する際に
「私」がやっているという解釈になっちゃうだけなんです。

そもそも、この世に私なんて存在してないんですよ。
あの世にも存在しておりませんし、そもそもあの世もこの世もないんですけどねー。

もっというと、存在する・しないなんてのもないんです。
もう全てがここにありますし、全て以外のものなんて無いんです。

だから、在るが全てなんです。
この在るを僕らはすでに知っています。
ですが、思考の解釈はこの在るさえも、私という枠に閉じ込めちゃうんです。

すると、思考がなくなったら、「私」が消える。そして全てが消える。
体が無くなったら「私と全て」が消滅する。

みたいな解釈をしちゃうんですよね。
これがまた恐怖を演出しちゃったりするわけです。

ちなみに、僕らの苦悩は、この「私」をなんとかしようとすることから始まるんです。
つまりは、無いものをあると解釈しちゃうところから始まるとも言えるわけなんですよね〜。

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