Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

「私」はなんにもしていない

はじめに

ほいっ!
どうもおはようございます。
タクさんです。

みなさんは、朝に今日の予定を立てたりします??
予定ってね〜。
ちゃんとその通りにいくこともあればいかないこともありますよね。

そして、そのとおりにいっても良いし、予定通りに行かなくてもオッケーなんですよね〜。

僕らってね。
ずーっとやってきたものに対して、後付けで、「ワシがやった!」っていう解釈をしているわけなんですけどね。

この「ワシがやった!」という解釈のせいで、
ちゃんとしなきゃいけない!という不安を抱えていたりするんです。

でもね。
ワシがやったことなんて、一切ないんですよね。

つまり、あらゆるものはちゃんと、やってきては去っていっているんです。
僕らはただ、それをみているだけ。

そして、見ていると同時に、やってきては去っていく事。
これらもまた、僕ら自身なんです。

これこそが、いわゆる全体というやつなんです。

ちょっと訳がわからん!
ってなっちゃうかもしれませんね。

でも、そーなんですよ。

 

全体は向こうからやってくる

つまりはね。
聞こえてくる音、あらわれる光景って、
勝手に向こうからやってくるじゃないですか。
僕らはそれを受け取っているだけですよね。

ですが、この受け取った瞬間。
僕らはその音そのものですし、光景そのものなんです。

身体に風を感じるとき、あなたは風と一体になっているわけですもんね。
なぜなら、感じられる風は、あなたの中にあるわけですから。

その後、解釈が入ってきて、
「あっちのほうから音が聞こえる。。。」
と言ったようにね。

自分と何かを分けるという解釈が入ってくるんです。

そして、この解釈という思考が動いている間だけ、
「私」という存在が登場するわけなんですね〜。

そして、この「私」は、やって来ることに対して、
「わしがやった!」という解釈を付け加えるんです。

「私」はなんにもしていない

もし、本当にあらゆることを「私」がやっているのだとするなら、
お腹が減る時間も、ふと現れてくる考えも、
起こってくる感情についても、
ぜーんぶ、予定しておくことができるはずです。

よーし!今日は朝10時ひらめこう!
ひらめいたあとに、お腹がすく瞬間を入れておいて、
ご飯を食べたあと、すこし悲しもう。

昼まで悲しんだあと、なんだか気分が晴々させよう。

あー、最近、苦々しい気分になってないから、
久しぶりに、今日の夜は苦々しくなっておこうかなー。

とかね。
そういう事ができるはずなんですが、ま、出来ないですよね。

だって、「私」はなんにもしていないからなんです。

私はポテンシャルそのもの!

望みだってそうです。
私がこれを望もう!と決めたわけじゃないんです。

だって、好き嫌いだってそうじゃないですか。

「ワシ!明日からアスパラガスが大好きになる!」

なーんてね。
そう決めてそうなるわけじゃないですもんね。

わー好きっ!が向こうからやってくるわけですもん。

そしてね。
「そっかー。私ってなんにもしてなかったんだ」
っていうことが、気づかれるほどにね。

あ、だったらそもそも私はすでに許されていたんだ!

っていうか、許されない私なんて存在してなかったんじゃん。
ということも明らかになってくるんです。

そして、起こってくるありとあらゆる事。
その奥には、すべてのポテンシャルがもうすでにここに在って、
私とそのポテンシャルは、一緒なんだと気づくんです。

つまり私はポテンシャルそのもの。そしてそのポテンシャルこそ全体なんです。

 

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