Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

思考は言葉で紡がれる

はじめに

はぁーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

みなさんは、テレビって見ますか?
僕は、ココ数年、すっかり見なくなりました。
以前はテレビってずっとつけてなきゃ落ち着かない。
って感じになってたんですけどね〜。
今は、テレビがついてると落ち着かないという感じになってます。

でも、たまに実家に帰ると、やっぱり親世代はずーっとテレビをつけっぱなしにしてるんですよね。
あれは、ちょっとキツイわぁ〜。って印象があります。

番組がつまらんとか、そういうことじゃないんですけどね。
ただ、誰かが喋ってるのがうるさいって感覚に近いのかもしれませんね〜。

ですが、ちょっと苦手な番組もあるんです。
それが、いろんな大人が沢山出てきて、あれこれと討論するやつです。

誰かが話してるのに、途中で遮って、
「それは間違ってるーーー!」
とか言い合う系のやつですね。

あれってねぇ。
みんなどんどん声が大きくなって言ったりしますよね。

それがもう、うるさいんですよね〜。

ちなみに、好きな番組は、
「世界ふれあい街歩き」
みたいなやつです。

あれ、まだやってるのかな?
アマゾンプライムとかではありますよね。

あれは、好きだわ。
なんかずっと見てられる。

あとは、海の生き物系のやつとか。。。

皆さんは、どんな番組がお好きでしょうか??

 

思考は言葉で紡がれる

僕らの思考もね。
言語で出来ているわけです。
言語で出来ているからストーリーなんですね〜。

そして僕らはこのストーリーに夢中になっていて、
どんなことでもストーリー化しておかないと気がすまなくなっちゃっているんです。

そして、その声はどんどんと大きくなって、
小さな声はかき消されているんです。

何でも思考のストーリーに置き換えて、
そして、そのストーリーこそが真実であるかのように錯覚しているんですね〜。

そして、そんな中、
どうすれば嫌な思考を消せるのだろう?
どうすれば良い思考に変えられるんだろう?

ってな感じでね。

もう、この思考のストーリーが当たり前になってしまっていて、
そのストーリーをどうにかしようとすることばかり考えちゃうんですよね。

そうやって、僕らはどんどん思考に取り込まれていっているんです。

考えるな!感じろ!

そもそも、思考のストーリーというのは、道具であって、
必要なときだけに使えば良いものだったはずなんです。

元々の僕らは、感じる者であって、考える者ではなかったんです。

ですが、いつしか、感じるから考えるへとどんどんと移行しちゃったんですね〜。

考えるとは、思考のストーリーを回すということです。
それを常に回し続けておかなきゃ気がすまなくなってきて、
静寂が置き去りになってしまったんですね〜。

慣れというものは、怖いものでして、
考えてなきゃ怖いとまで思うようになってしまったりもしています。

まるで、一昔前のテレビ全盛期の時代のように、
テレビがついてないと落ち着かないという状態のように、

思考のストーリーを常に回していないと落ち着かなくなってしまっている。
と言えるのかもしれません。

静寂に在る

僕がオススメしているのは、
そんな思考の喧騒を離れて、ただある感覚だけに在ってみると、
とっても楽なんですよ〜!というお話なんです。

最初は、ただ在るというのはとても落ち着かないような気がするかもしれません。
なにか考えて準備しておかなきゃならないような焦りもあるかもしれませんね。

ですが、一度この感覚を再び思い出すと、
あー、もうあんな思考のうるさい世界に戻るなんてゴメンですわぁ〜。
って感じられることうけあいです。

この静寂こそ、まさに僕らのベース。つまり基準だったんです。


セッションでは、そんな静寂に戻れるようなキッカケを、対話を通してお手伝いさせていただいております。
よかったら是非ご検討くださいまし♪

 

takuteto.hatenablog.com