Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

世界観の破壊と非二元の目覚め

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

みなさん。
いい夢みておりますか?

ちなみにね。
寝てるときに見ている夢って、
徐々に目が覚めてくるに従って、

「あれ?これってもしかして夢なの?」

ってなってきて、
徐々に目が覚めてぱっと目を開いて、

「おー!夢だった!」

って感じで、夢から覚めますよね。

そして僕らは、いわゆる現実というものの中に入っていくわけです。

この現実というのは、自分というものがいて、その自分が世界の中であれこれと立ち回って生きていくっていう世界観なわけでして、
いつでも中心には、自分がいるんです。

でね。あれこれと昼間の時間を過ごして、
この自分中心の世界観が、夜寝入りばなにスーッと消えていくんです。

そして、この消えた世界観の中にまた、イメージが浮かんできて、
僕らはそれを見て、夢と呼ぶ。

ま、こんなことを日々繰り返しているんですね〜。

 

夢と現実

ちなみに、昼間の自分を中心とした世界と、寝ている間に見る夢の世界。
これらに共通するのは、どちらもイメージを見ているということです。

違うのは、夜に見ている夢は全てイメージだけど、昼間については、
一応目の前の世界を見ながら同時にイメージを見ている。って感じでしょうかね〜。

なので、どちらもイメージなんですけど、少しイメージの質が変わるんです。

夜の夢はイメージをただ受動的に見ているだけって感じなんですが、
昼間は、目に見えてきたもの、耳で聞いたことなんかにイメージがペタッとくっついて、
それを見ているって感じでしょうかね〜。

だから、感覚としては主観要素が強いと言えるかもしれませんね。

いわゆる、「ワシがコントロールしている!ワシがやっている!」という感覚です。
いやいや、やってないんですけどね。

世界観の破壊

ま、そんな夢なんですが、
夜に見る夢は、目が覚めて新しい昼間の世界観が入ってくる事によって破壊されます。
昼間の世界観で、夜の夢はウソで昼の世界こそがホントっていう判断がなされて、
「なーんだ。夢だったのか!」
とウソ判定されてしまい、破壊されるわけです。

昼間の世界観は、このホントかウソか?っていう判断基準をとても大事にしますからね。

なので、「私はいない」なんて聞かされると、
「え??じゃあ、私にかわるホントのワタシはどこにいるの??」
って感じたりもするわけです。

でもねー。
実際のところ、ホントもウソも無いんですよね。
ウソというのはそもそもはイメージによって作られるものですので、イメージを通して世界を見る限りは必ずウソが入り込むわけです。

ちなみに、こうやって書いている言葉による文章もね。
イメージの中のツールですのでウソが入り込んでおります。

そもそも文字って、単なるシミみたいなものですからねー。

非二元の目覚め

では、「目覚め」と呼ばれるもの。
眠りから目覚めが、寝てる間に見ている夢を破壊するものであるのならば、
いわゆる非二元の目覚め(ちょっと表現が変ではありますが)というものは何を破壊するのか?
といいますと、
この私を中心とした世界観の破壊なんです。

ただ、昼間の意識は、寝てる間の夢をウソ判定して破壊しますが、
非二元の目覚めは、私を中心とした世界観をウソ判定して破壊するということとはちょっと違います。

そもそも、ウソもホントもなくて、これらは思考が作るイメージであって、
このイメージの働きとしてウソとホントという概念がある。
ということを見抜くということになるんです。

そして、このイメージの世界以前に僕らはこのダイレクトな今に在ったし、今も在るということを思い出すということなんですよね。

だから、いわゆる私を中心とした世界観がウソだから、別の真実をそこに持ち出す。
ということともちょっと違うんです。

ただ、感覚としては、身体に限定されていた「私」はこの身体を飛び出し、あらゆる全てが私であるということを、理屈を超えて理解されるんです。

アルナーチャラという山の麓にあったラマナ・マハルシさんという方が、
「私が死ぬということはない。私はずっとあのアルナーチャラと共に在る。」
といったような言葉を残されました。(ちょっとうろ覚えですが、、、)

この、感覚がまさにリアルに腑に落ちるって感じなんです。

 

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