Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

思考は至高ではなく最も川下にあるもの

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

さて突然ですが、直感ってあるじゃないですか。
なんていうか、思考も通さないダイレクトな感覚。

これが直感ですよね。

そして、直感があった後、あれこれと解釈が始まると、
この直感はもう失われてしまうんですよね〜。

そうするとね。
解釈の世界に戻るわけです。

でもね。
この解釈をせずにいると、
もうすべては直感的なんですよね。

いわゆる「コレ」。
今ここのすべて。

これもねぇ。
直感的に知られるんです。

この直感的に知られた「コレ」もまた、
その後、解釈が始まると、直感は失わあれ、
ぜんぜん違うものになっちゃうんですけどね〜。

でも、在るのはすべて、この直感的なダイレクトさ。
これだけなんですよね。

これは共鳴に似たような感じかもしれません。
共鳴は互いが一緒になって鳴り響くんです。

コレが全てで、それ以上でもそれ以下でもないんですよね。

 

言葉では表現できない。

わかりますよ。言いたいことは。
直感的だとかダイレクトさだとか。
もっとわかりやすい言葉でちょーだい!って思っちゃいますよねー。

でもねぇ。
このダイレクトさって、絶対的に言葉では表現できないんですよね。

だって、言葉って、なんか一歩離れてるじゃないですか。
また、言葉って、あらゆるものを分けて表現しますよね。

コレは白で、あれは黒。
みたいな感じで、ありとあらゆるものを分けてラベルをはり、
それを並べて分類する。

これが言葉ですもんねー。
つまり言葉とは思考の仕組みそのものでもあるんです。

そして、分離の概念が大前提にある思考や言葉では、
「コレ」が表現できないんです。

なぜなら、「コレ」はダイレクトさそのものだからなんですよね。

ダイレクトさというのは、分離のなさです。
そして、このダイレクトさはずーっとここに在って、
常に僕らはこのダイレクトさを感じているんですが、
このダイレクトさは常に感じられていながらも無視され続けているんです。

思考は自身のことを至高だと錯覚している。

思考ちゃんはね〜。
なんていうか、何でも分かっておきたい働きですからね。
言葉でもってちゃんとストーリー仕立てにしないと気がすまない働きなんです。

でもこれ、
なんていうか、ひとつのそういう働きであるということですからね。
風が吹くというのと同じなんです。

心臓が脈打つ。
というのと一緒なんです。

ただねー。
僕らは思考ちゃんとその解釈一辺倒になっちゃっててね。
あらゆることもぜーんぶ解釈しなきゃはじまらない!

思考こそ至高!!!

ってね。
そう思い込んでいるんですよね。

ま、思考がそう思い込むのは勝手ですが、僕らもそのドラマに夢中になって一体化しちゃっているんです。

そして、思考の中で作られた言葉によるストーリーが真実だと錯覚しているんです。

きっとね。
この錯覚をしているのって人間だけなんじゃないかな?って思います。
それは、人間が思考を補完する言葉という複雑なツールを持っているからなんだと思うんですよね〜。

もちろん、動物たちも様々な言葉を持っているものも多いわけですが、ここまで複雑では無いんですよね〜。

そして、言葉というツールは強力な武器ではありますが、強力すぎるゆえに副作用があるんです。

強い薬には必ず強い副作用があるのと似ているのかもしれません。

つまり言葉は便利すぎるがゆえに、言葉で作った夢の世界を真実と混同してしまうという強力な副作用があるんですねー。

ま、そんなわけで、思考は思考によるストーリーを真実であると錯覚することによって、
思考こそ至高と勘違いしているわけです。

ですが、実は思考はもっとも川下に位置しているんですよねー。

だから、あらゆる思考のストーリーは全て後付けなんです。

 

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