Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

縁起、すべてはひと繋がりである

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はじめに

はい
どうもおはようございます。
タクさんです。

皆さんは縁起担ぎってやったりしますか?

僕はねぇ。
縁起担ぎって興味がなくてですね。
あんまりしないんですよ。

厄年とかもね。
まったく気にしたことが無いんですよね。

ただ、家にいる金魚の数はなんとなく7匹!
と決めています。

ラッキーセブンですからね。

まあこの縁起ってやつですが、
僕らはこの縁起について、

これは縁起が良い。
とか、
これは縁起が悪い。

ってね。

何かしらの出来事なり考え方なりを
良い縁起か悪い縁起かでわけることばかりに目を向けがちになってたりするんですが、

実は縁起っていうのは、良いとか悪いというものじゃないんですよね。

元々の意味としては、全てはひと繋がりだよ〜ということなんです。
それ以上でもそれ以下でもありません。

このひと繋がりということから発展して、何かが起こると良いに繋がる。
はたまた、悪いに繋がるといったように、論理を発展させて、
縁起に、良いや悪いが出来始めたのかもしれませんね。

でも、もともとは良いとか悪いがあるわけじゃなく、
ただただ、すべてはひと繋がりである。
ということ。
それが縁起なんです。

 

全てはひと繋がりであるということ

全てはひと繋がりです。どこにも分離は存在してないんですね。
分離というのはどこに存在しているのか?というと、
思考のストーリーの中にしか存在していないんです。

すべてはひと繋がりだということは、
あらゆることは即全てであるということです。

即全てなので分離が入り込む余地なんてどこにもないんです。

分離はストーリーを紡ぐ上で必要になる一つのルールのようなものです。

サッカーをするには、ボールを手で触ってはいけないというルールが必要なのと同じようなもので、ルールがないとストーリーは紡げないんですよね。

ただ、ルールは実在するものではありませんもんね。
これを実在だと錯覚することが、お釈迦さんの言うところの無知ということなのかもしれませんね。

全てはダイレクト

全てはダイレクトなんです。
このダイレクトさはストーリーを介した世界観ではありません。

何も介さないダイレクトさ。
これこそ、生の表現なんです。

生の表現が常に湧き上がっている。
あるのは、もうコレだけなんです。

コレがあるから、ストーリーを紡ぐことも出来るわけなんです。

つまり、僕らは生の表現があるからこそ、ストーリーを紡ぐことが出来ていますし、
そのなかに自分というものを作ることが出来ているというわけですね。

ただ、そのストーリーの中の自分はこの生をダイレクトに感じることが出来ないんですよね。
かなり薄まっちゃってますからね〜。

ストーリーを取っ払うことによって、ダイレクトさが目覚めるんです。
ストーリーを取っ払っちゃうから、自分も一緒に取っ払われるんですけどね。

だから、自分が目覚めるわけではなく、単にストーリーから目覚めるだけなんです。

 

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