Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

迷い事はどっちの転んでもそれで良し!

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

ブログはもうオワコンだと言われる昨今。
このブログに辿り着いていただいてありがとうございます。

さてさて、あなたは自分自身でこのブログに辿り着いたのか?
それとも、私以外の何かに辿り着かされているのか?

どっちなんでしょうね?

というわけで、今日は自由意志について書いてみたいと思います。

自由意志って、やっぱりどう考えても有るって思っちゃいますよね。
今日の朝、ワシはチョコパンが食べたかったから、チョコパンを買って食べたんじゃ!
もうこれだけで、自由意志があるといっていいじゃないか!
チョコパンの隣に、クリームパンがあったから、一瞬どっちにしようかと悩んだけど、
これだって、ワシが
「よし!チョコパンにしよう!」
と思い、チョコパンを選択したんじゃ〜い!

って思いますもんねぇ。

どう考えても、自由意志はあるようにみえます。

でも、ホントにあるんでしょうか?

 

自由意志ってホントにある?

ホントにあるんでしょうか?

って聞かれると
「そりゃーあるに決まっとるやないかっ!」
って感覚的にはそう感じるかと思います。

でもね。これって厳密に言えば自由意志とも言えないんですよね。

もちろん、チョコにするかクリームにするかは選べます。
(※ホントは選んでないんだけど、そこは置いておきます)
でも、それ以前に甘いものが食べたいっ!ってなってますよね。

この反応があって、チョコにするかクリームにするかを選んでいるんですよね。

つまり、本当の選択の自由があるのか?
というと、そうとも言えないんです。

何を食べるか?の選択肢は、あらかじめ決められているんですよね。
ここは自由ではないんです。

その選択は本当に自由なのか?

例えばね。
底に落ちてる石ころをたべようか?
それとも、この空き缶をたべようか?
もしくはパンを食べようか?

って選んでいるのであれば、
結構自由なんですけどね。

僕らは食べられるものは選んでないんですよね。
更には好きな食べ物や好きなことってのも自分で何を好きになろうか?って決めてすらいないんです。

また、お腹が減るタイミングも、自分で選んでいるわけじゃないんです。
ただただ、反応が起きて、その反応に伴って自然に選択を促されているだけなんですよね。

もちろん、多少はその選択を保留にすることは出来ます。
(※これも厳密には、やってないんですが、ここもまた置いておきます)

ですが保留をすると、反応はどんどん大きくなっていくんですよね。

つまりどういうことかというと、
腹が減ったよ!という反応が起きた時に、それを保留すると、
この腹が減ったよ!の声が大きくなっていくっていう感じです。

ちなみに、この反応を抑え込むときに僕らは苦を感じたりもするんです。

迷い事はどっちの転んでもそれで良し!

つまりね。
僕らができる選択っていうのは、道でいうとね。
分かれ道を選択するというのではなくて、
せいぜい道はすでにあって、その道の右側を歩くか、左側を歩くか?
はたまた、真ん中を進むか?
くらいしかないんですよね。

あとは、多少歩みを緩めることくらいのことはある。

って感じですかね。

でね。
調子がいい時はガンガンと進む感覚があるんでが、
迷いがあると、歩みも遅くなって、どうにも滞ったかんじになるんですよね。

でもご安心ください。
どっちを選んでも、ま、一緒なんです。
つまりはどっちでも良いってことなんですよね。

そして、ホントは選んでさえいないんです。
チャンチャン♪

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