Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

運命はきまっているのか?それとも人生は選択できるのか?

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おはようございます。
タクさんです。

結構よく聞かれるのは、
運命というものはあるのですか?もう決まっているんでしょうか?
といった質問です。

僕らは、
湧き上がってくる思考や感情をコントロールしているという思い込みを持っていたりします。
ですが、思考や感情をコントロールしている者と言うのはいないんですよね。
ただし、思考の1つとして理性的な働きをする思考はあります。
この理性的な働きは、他の感情や思考を制御しようとする働きがあるわけですが、
どうもこの働きを「私」と混同しちゃいがちなんだと思うんです。

この理性的な働きは大人になっていくにつれて発達していく働きです。
子供は泣きたかったらギャンギャン泣きますが、大人はこの理性的な働きの制御が効くので、今は、ギャンギャン泣くのをやめておこうという働きが起こるわけです。

「空腹感が起こったとしても、仕事中だからもう少し我慢しよう。。。」
とかね。

そういう働きが起こるんです。

起こってくる空腹感や、感情に伴う思考と、この理性的な働きは同じ思考です。

これらの思考は、働きとして起こりますが、思考自体をコントロールしている行為者というのはいないんですよね。

僕らがもし、思考をコントロールしているのだとすると、人の悩みなんて存在しないはずなんです。
なのになぜ悩みがあるのか?といいますと、コントロール出来ないものを、コントロールしているという錯覚、思い込みがあるからなんですよねー。

 

誰もコントロールしていない。
と聞くと、
「ということは、誰も自由に何かを選択していなくて、全ては運命によって決まっているということなんだろうか?」
ということも気になっちゃったりするわけですが、
これは、コントロールしているという思いがあるから出てくる思いだったりするんですよねー。
なにかが決まってるというわけではありません。
そもそも、何かを決まったことにしているのも、これまた思考の中だけの概念であって、
なーんにも決まったりはしてませんし、決まるというのは解釈にすぎないわけなんですよねん。

選択にしてもそうで、誰かが決めているわけではなく、
思考がぱっと起こってきて、その思考が大きく育ち、やがて行為へと移っていく様子を、僕らは選択したと解釈しているだけなんですよね〜。

選択していると解釈している思いがあるので、

僕らは運命が決まっているという思いをとても不思議に感じたりしているわけですが、
それは、解釈に主体を置いているときだけに起こる疑問のようなものであって、
その解釈よりももっと奥、そしてもっと身近な気づきに在ってみると、
それも単に起こっては消える思考の1つでしか無いことが見て取れるんです。

そして、そこで観察してみると、
運命も自由意志も同じものであって、一緒なんだと言うことも見て取れるんですよね〜。

人生について、
これって運命だよなぁ〜。と思っている「運命」や「宿命」も、
これは私が選択して選んできたものだと思っている「選択」や「自由意志」も、
どちらも一緒なんです。

だから、運命はあるのか?自由意志はあるのか?
と考えても、これは同じものをどっちなんだ?
ってやってるだけなんですよねー。

例えるとしたら、コインを手にしながら、
このコインはこの表のほうが正しいコインなのか?
それとも裏面が正しいコインなのか?
と考えているのと似た感じです。

いや、同じやで。どちらもコインですよ〜。
っていう話なんですよね。

いやでも、ぜんぜん違うじゃないか!
って思うかもしれませんが、それは表と裏のデザインが違うだけって話なんですよね。

何かしらの条件を採用し、その条件下で概念化しようとしたときに、
同じことを、運命と表現したり、自由意志と表現したりしているに過ぎないわけです。

なので、自分が選択したとしていても、全く問題ないですし、
どうにも選択に後悔を感じるようであれば、ハイハイ運命運命。ワシャ知らん。
と思ってりゃ良いんです。

この辺で重要になってくる要素は「お気楽さ」です。
どっちがお気楽に感じられるか?を採用してれば良いんですねー。

気が向けば、
選択していると思っていた思考がどのようにあらわれてくるのか?
というのを、注意深く観察してみるのも面白いと思います。
よくよく観察すると、
甘いものを食べよかな〜という思いが自然発生的に発生し、
我慢しなきゃな〜という思いもまた自然発生的に発生し、
そして、消えていくか、発達するかが勝手に起こります。
そして、同じ思考の中のどれかが、主体者の役を演じ始めたりするわけです。

そのへんの様子もまた注意深く観察してみると、
主体者、行為者なんてどこにもいないという明白さが
あらわになるかもしれませんよん。

 

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