Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

執着と思考

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はじめに

あいよっ!
おはようございます。
タクさんです。

よくね。
執着を手放しなっさーい。
なんてね。
言われてたりするじゃないですか。

そんな時にね、僕らはついつい思考の方を手放そうとしちゃいますよね。

そして、思考が起こらないことを目指そうとする向きもあったりなかったりするわけですが、
別に執着が無いからといって思考が無くなるってわけじゃないんですよね。

思考は勝手に起こりますがそれに必要以上にこだわらんでもよくね?
というのが執着を手放すってことですのでね。

別に禁欲をするとか、思考をなくすとか、
そういうことじゃないんです。

ただね。
思考って自分(厳密には自分ではないですが、、、)とべったりくっついていて、
完全に同化してたりしますからね。

そういうときに、一旦思考を置いておいてみる。そのまんまにしておくことで、
「あ、置けるんや!」
ということを知るのには、良いんですけどね。

 

執着と思考は別

思考と執着っていうのは似ているように見えてちょっと違うんです。
窓に映る景色が思考だとしたら、その景色がまるで窓の外のこととは思えない。
まるで自分に向かって起こっているかのように感じる。
窓の外の雨で濡れることはないんだけど、まるで土砂降りの雨に濡れているように感じる。
っていうね。
思考にリアル感が演出されている感じ。
これが執着なんですよね。

リアル感を感じるから、どんどん思考のストーリーを追いかけたくなりますし、
追いかけられるから思考はどんどんストーリーを紡ぎ出すんです。

ただ、思考ちゃんもね。
言うほど盛りだくさんのアイデアを持ってるわけじゃないから、
結局の所おんなじストーリーの繰り返しをやってたりするんですけどね。

執着とは、思考がぺったりとくっつくこと

つまり、執着とは思考がベッタリとくっつくことなんです。
実際にひっついてるわけじゃないんですけどね。
僕らは何でもかんでも思考を通してしまういわゆるクセのようなものですね。
もともとこのクセは持ってなかったんですよ。

最初は、違和感を感じながらも思考を通しての解釈をしていたんです。
ですが、いつの日か、思考を通さないほうが違和感を感じるようになってしまったんですね。

そして、思考を通してることさえも忘れてしまったんです。

思考は何とぺったりくっついているのかと言うと、
僕らが「自分」と呼んでいる感覚です。

実際にはそれは自分ではありません。
自分とは思考がつけたラベルのようなものなんです。

自分感覚に名前はない

自分感覚は、自分というラベルを付けているから、自分だと感じているわけですが、
実際はもっとダイレクトにあるものです。

そしてそれは全てでありスタートでありゴールでもあるんです。
形もなく、分離もありません。

常に湧き上がってるものなんです。

これに自分というラベルをつけることで、コレの大半を僕らは見失ってしまうんです。

僕らはラベルをつけることで分離されるわけですが、
そこで失ったことをどこか無意識の部分でわかってるんですよね。

だから、それを探し求める旅を始めるんです。

ただ、分離の世界に入ってしまっていることも忘れてしまっているんで、
分離の中でそれを探そうとしてしまうんです。

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