Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

カルマや執着や思考って手放せるものなの??

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

年末ですねー。
みなさんはどのような年の瀬をお過ごしでしょうか?

私は、まだどこかで、今年はついこないだ始まったという気が拭えないでおります。
これってもう、年をとったということなんでしょうかねー。

さてさて、
カルマを手放せだの、執着を捨てろだの、
あれこれと言われておりますが、

まあこれ、
まとめて言いますと、結局のところ思考を手放せ。
ということになりますよね。

だからと言って、
思考を手放せと言われも〜。

ホントにそんなことできる人いるの〜?

って感じちゃいませんか?

ま、結論から言うと、
そんな人おらんのですけどね。

なぜなら、僕らは思考を手にしたことすらありませんからねー。

 

カルマや執着を僕らは持ったことすらない

僕らは思考を持っているっていうのもまた、
ひとつの思考なんです。

そもそも、僕らはなーんにも持っておりません。

カルマを手放すだの、執着を捨てろというのも、
一緒です。

そもそも僕らはカルマも執着も持ったことすらないんです。

もし、
「私はカルマや執着が強いんだ」
なんて思い込みがある方がおられるなら、
安心してください。

あなたは、そんなもの持ったことすらありませんからねー。

「てい」への気づき

でもね。
持ったことすらないと言われても、
じゃあどうすればいいの?

って感じられるかもしれません。

その答えといたしましては、
持った「てい」にしていることに気づくことなんです。

ほら、僕らって普段は思考のストーリーそのものをみてるじゃないですか。
あんなことがあって、それがこうなって、こうなった。
みたいな感じでね。

そして、そんな中で、
こんなことは「あるべきではない!」
ってなったり、
いや、こう「あるべきだ!」
ってなったりしているわけです。

そして、そういう「べき」が出てきたときに
僕らは、ある種の衝撃を受けるんです。

その衝撃は「べき」へのこだわりが強いほど
大きくなり、あまりどうでもいいことについては、
それほど衝撃は強くないんです。

カルマと執着

でね。
この「べき」の奥には、必ず何かしらの条件付けが存在するんですよね。
この条件付けによって、「べき」が発動するというカラクリなんです。

条件付けには、自分にとってどうでもいいものもあれば、
譲れないものもあったりするわけです。

譲れないものほど、こだわりが強いというわけですね。

でね。
この条件付けこそ、「カルマ」であり、
そして、こだわりの部分に相当するのが執着というわけです。

これら二つは、おんなじ思考の一部ですよね。
なので、まとめて思考ちゃんだよね。ともいえるわけです。

この条件付けや、そこに対するこだわりというのは、
どこかで聞いたか?体験した記憶が元になっているんですよね。

つまりは過去なんです。

つまり、思考は今ではなく過去なんです。

今にたたずむ

この条件付けに乗っかることでいろんなストーリーが頭の中で展開するわけですが、あるがままにみてみるとね。

そのストーリーがあるがままだということではなく、
とある条件付けによって、反応が起きている。
という方が、あるがままですよね?

なのでまずは、こういう条件付けで、こういう反応が起こってるんだー!
ということを確かめてみたらいいんです。

そして、この条件付けというのは、
よくよく観てみると、あるべくしてある。
起こるべくして起こっているんです。

つまり、これって許されているということなんです。

変な話なんですが、条件付けによって、
「こんなことは許せない!」という反応が起こっていること。
このこと自体が許されているんです。

膝をコーンと叩いたら、足が跳ね上がる。

というのと同じような、ただの反応なんです。

そして、反応が起きているということを知ることで、
不必要にそのことを反芻(はんすう)する必要ってないよねー。
ということを知るんです。

だから、あらゆることは起こっては消えていく。
そこになんの問題もないし、
さらには、起こっているとしていることも、
起こっているようで起こっていない。

ということになるんですよねー。

だって、起こっているのは全部イメージですもんね。

あとはただ、今にたたずむのみですね♪

 

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