Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

「私は在る」のに「私はいない」ってどういうこと?

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はじめに

はい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

まあ、皆さん。
やっぱり、自分のことって気になりますよねぇ。

僕らの最大の関心事ってやっぱり自分ごとだったりするんですよね。

だから、自分探しなんてのも流行ったりするわけです。

ただ、自分ってねぇ。
結局、概念ですので、勝手に決めちゃって良いんです。

そもそも無いものですからね。
なので、勝手に決めて遊ぶものなんですよね。

そして、決めるのに過去の自分を持ち出す必要もありません。

私は今までこうだったから、きっと私はこういう人間なんだ。
ってなことで決めなくても良いんですよね。

なぜなら、
そもそも、自分は無いものだからなんです。

え?でも私は在るって言葉。よく聞きますよ?
自分は無いのにどういうこと?

って思う方もおられるかもしれません。

でも実は、
「私は在る」と「私はいない」は同じことなんです。

というわけで、今日は私は在る話をしていきたいと思います。

 

私が在るなのではなく、私は在る。

私は在るを発見するってなことは、たしかニサルガダッタ・マハラジさんの本なんかによく出てくる言葉ですね。

こんなことを聞いちゃうと、
「え?私って在るなの?」
「どうやって、その在るを発見すればいいの?どこにあるの?」

って思っちゃいますよね。

それが私の本質なんだとしたら、そりゃー見つけたくなりますもんね。

ただ、私が在る。というよりは、私は在るなんです。
これ、ちょっとニュアンスが難しいんですが、在るというのはどこかで発見されるものじゃないんです。

私は在る

つまるところ、私は在る。というのは、
別の言い方をすると、

私は男でも女でもなく、
私は妻でも夫でもなく、
私は主婦でも会社員でも事業主でもなく、
私はオジサンでもオバサンでもなく、

ただ在る。

ということなんです。

この在るというのは、新しいレッテルではないんですね。

あらゆるレッテルはあくまでもレッテルであって、
そのレッテルは、私の本質じゃないよね。

ということなんです。

レッテルとは概念に過ぎません。
概念はやってきては去っていくものです。
概念は、モノではなく、蜃気楼のようなものなんです。

そんな蜃気楼のような概念。
私にくっついている概念。

これらは全部私じゃないよね。
ということなんです。

でも、私という実感と言うかなんというか、
そういうのは在るじゃないですか?

それが、在るなんです。
これに理由や定義をくっつけるから別物になっちゃうわけでしてね〜。

私は在る。
もうそれで終わりなんですよね。

私は在る=私はいない

在るを探しちゃうと、今度はその「私は在る」の状態を保とうとしちゃいます。

でも、これは、状態を保つという話でもないんです。
何かを探してきては、その状態を保とうとする。
これもまた、この世は連続性で成り立っているという錯覚から来ております。

私は在るというのは、そんな連続性の中に現れるものではないんです。
むしろ、その連続性という錯覚を取り除いた時に現れるものなんです。

連続性という錯覚から醒めたときに、ここに残るものなんです。

そして、この在るはどんな定義もレッテルも受け付けません。
その時、私というのもまたレッテルの一つであることが見抜かれるんです。

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