いないのって自分だけなんです。
でもこの自分って皆さんが思ってるような自分やありません。
有名な非二元の先生や悟りを開いた聖者が特別なんじゃないんです。
特別さ、それもまたイメージでしかありません。
ただ、自分というのが単なる観念やと気づいただけで、
普通に皆さんが思うような私がいなくなったわけでもないんです。
何かしらの観念が残ってる、自分が残ってる。というよりは、
あらゆる観念が自分と同化しとるっていう誤解があるだけなんです。
自分というものがもともとあって同化したというよりは、観念を自分というものに変化させたっていう感じですかね。
観念とは起こったことに貼られたレッテルです。
なので、まずは、自分だけがいないってこと、この自分は観念そのものではなく、そこに後付けされ変化したもんなんやっちゅうことです。
そして、あらゆる観念もレッテルをはがしちゃうとなんでも無いものになります。
はい。
おはようございます。
タクさんです。
はい。
わかってますよ!
なんていうか、ややこしいですよね。
うん。
わかります。
自分で読み返してみてもややこしいです。
なのでもうちょっと噛み砕いてみたいと思います。
「私はいない」「自分がいない」っていうのは、
皆さんが思ってるような自分がいないっていうわけじゃない。
あらゆる観念が自分と同化しとる。
ここ、よくわからないですよねぇ。
これはね。
つまり、普通に自分は自分や!って思う時って、
それはなにを指して自分やとゆーとるのか?
っていうことをちょいと見てみたらいいと思うんです。
我考える!故に我あり!!!
とも言われているように、この考えが自分やと思ってたり、
感情や信念。心と言われているようなもの。
それを自分だと捉えていたり、
身体。それを自分だと思っていたりすると思うんです。
これらをぜーんぶひっくるめて自分なんや!
っていう方が大半なんじゃないでしょうか。
でも、散髪したとしたら今まで自分の一部やった髪の毛は、自分じゃなくなります。
思考や感情は止まらずに常に動いています。
それを持っておくことはできません。
覚えておくことはできても、完全再現はできません。
初恋の感覚を再度思い出してニヤニヤしようにも、
その時の完全再現とはいきませんからね。
起こっては去っていく思考や感情が自分だとしたら、
自分は常に去っていくことになりますねぇ。
目の前にあるコップの水は自分じゃないですが、
それが胃に入ったら、それは自分なんでしょうか?
身体も心も常に変化します。
10年前の写真と鏡の前に写ってる人を比べたら一目瞭然ですね。トホホのホ。
つまり、今の自分は昨日の自分とは違うものになってるわけです。
ありとあらゆるものは起こっているけど、もしかしたら、
それを自分やと後付けしとるだけちゃうんか?
っちゅうことなんです。
それが、自分だけがいない。っちゅうことなんです。
自分がいないという存在になるわけじゃありません。
単に、自分というのが単なるレッテルでしかなかったということを知るっちゅうことですね。
「私はいない」というのは、そういうことなんです。
あらゆる観念を自分というものに変化させとっただけなんですよね。
このあらゆる観念とは、考えや信条。感情に心、身体に記憶。
その他のあらゆるものです。
さて、言葉にしたらいろんな観念があるように見えますが、
この言葉もまたレッテルなんですね。
このレッテルも外しちゃうと、なんでも無いものがある。
っちゅうことになります。
ただ、それを捉える自分もまた観念ですので、
何かを捉える自分さえいないとなれば、主体と客体という考えも消え失せるんです。
それが分離のない、在るが在る。無いが在る。っていう感じです。
客体がないから全てが自分ですし、主体もないから自分さえないんです。
言葉で定義すらしなくてもいいし、する必要性もないほど明らかなんです。
定義しちゃうとそれは固定された偽物になっちゃいますのでねー。
あえていうと「全て」って感じですかねぇ。
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