【はじめに】
はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。
ま〜僕らは日常の中で常に何かを思ってたりしますよね。
そして、この「思う」の中に「自分」という概念もあるわけです。
ただ、この「自分」は思うの種類によってコロコロと変わるんですけどね。
だから、確立された「自分」っていうのは存在してないんですよね。
「自分」は思いの中のストーリーによってコロコロと変わっちゃうんです。
ただ僕らは、この思うのクセが強すぎて、
思うことは当たり前。問題はどう思えば良いのか?
という方法ばっかり探しちゃうんです。
だから、この思いの暴走に思いっきり一体化しちゃって、
そうなってることさえ気づけずにいたりするんですよね。
【われ思う、ゆえに我あり】
「われ思う、ゆえに我あり」
っていう言葉があるじゃないですか。
有名な哲学者であるデカルトさんの言葉なんですけどね。
この言葉が哲学の土台になってたりするらしいんですよ。
ま〜僕は哲学者じゃないのであまり知らんのですけどね。
でも、われが思うんじゃないんですよね。
この錯覚が思考に巻き込まれる原因になっていたりするんです。
われが思うんじゃなくて、思うの中にわれがいるんです。
ただ、思うというのは分離を使った物事のレッテル貼りですのでね。
思うからにはその主体者がいるはずということで、イメージの中で主体と客体に分けて納得したがるんですよね。
だから、思うをやっている主体は「自分」としているんです。
でもこれはあくまでもイメージでしかなく、ここでつけられたレッテルを通して、
目の前の世界を歪めてみてしまうんです。
【私は在る】
僕らは結構この思うと在るを一緒くたにしてしまっているんです。
在るは思うではありません。
在ると思っている状態を保つということでもないんですね。
でも僕らは、思うことに無頓着で、当たり前になってしまっているので、
「私は在る」という言葉を聞くと、
私は在ると思うにはどう思えば良いのか?どう納得すれば良いのか?
と考えちゃうんです。
納得するというのは、どのように整理してレッテルを貼れば良いのか?
ということですのでね。
どんなレッテルを通して世界を見れば良いのか?
つまりは、どのように世界を色付けして見れば良いのか?
ということになってしまい、
本来の無色透明の、そのまんまの今を見失ってしまうんです。
【分離はないし「私」はいない】
思いは分離が大前提になっています。
そして、実際には分離は存在しておりません。
ですが、分離がないと聞いてしまうと、
またこれも同様に、
分離がないと思おうとしてしまうんです。
そして迷ってしまうんですねー。
これは、「私はいない」という言葉も一緒です。
私はいないと思おうとすると、いや、そんなはずはない!だっているもん!
って迷っちゃうのも、わからなくなってしまうのも、
私はいないを納得しようとするからなんです。
そして、どのような考え方をすれば「私はいない」が納得できるのか?
と探求してしまうというわけです。
【思ってることを知る】
じゃあどうしたら良いのよ〜ってなるんですが、
僕らは思うことに無意識になってしまっておりますのでね。
だからどうにかしなきゃならないという思いから離れられないんです。
ホントはどうにもしなくて良いんですよね。
それを知るには、自分が思ってるということを知らなきゃ始まらないんです。
「観るくらいしかできることはない。」
なーんて、僕もよく言ってますが、観るとは、
いったいワシは何をしておるんだ?
ということを知ることなんです。
つまり、どんな思うをやっているのか?
どんな眼鏡を通して世界を歪めているのか?
コレを知るということなんです。
知ると、そこから離れることができます。
思うから離れると、もう「自分」は存在してないんですね。
ここでまた、あ!存在してない!これをどのようなレッテルで分けてとっておこうか?
と考えちゃうと、またすぐに思いの世界に舞い戻ってしまいますが、
あ、そういうふうな思いが起こってるんだな。
と観てあげることで、またその思いから離れられるんです。
ちなみにね。苦しみもまた「思う」の中で作られた幻想です。
ただちょっと意地悪なのは、
苦しみから開放されるために「思う」から離れようとしちゃうと、その「思う」を握りしめていることになっちゃうので、離れようとすればするほど「思う」を掴んじゃうっていうジレンマもあったりするんですねー。
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