Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

真実というやっかいな執着

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はじめに

はい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

ま〜こういった話でね。
どうしても厄介な執着がつきまとうことってあるんですよね〜。

この厄介な執着ってね。
得てして、なかなか気づきにくかったりするわけです。

なぜなら、この執着は真実に執着しているからなんです。

「え?真実に執着してるんならいいじゃん。あってるってことでしょ?」

って思いますよねぇ。

でもこれが、実に厄介だったりするんですよね。

例えばね。

するべきものなんて何もない。
そもそも「べき」なんてものはない。

なーんてね。
言ったりするじゃないですか。

これって、執着するものなんて無い。
ってことなんですけどね。

この「すべきことはない」っていう言葉に執着してしまうっていうね。
そういう厄介さがあるんです。

このすべきものなんて何もない。に執着しちゃうとどうなるか?
といいますとね。

誰かが、悟りだとか目覚めのためにはこうしたら良いよ〜って言うとするじゃないですか。

すると、
「すべきものなんて無いのに、こうしたら良いなんておかしいやないかー!」
って言いたくなってしまうんですよね。

これって、もう執着なんですよね〜。
ややこしいですね。

 

厄介な執着

なぜこういった厄介な執着が生じてしまうのか?
というと、
やっぱり自我ちゃんは、なにかしらを手にしたいって思ってるからなんです。
そして、あらゆる判断材料をかき集めてしまうわけです。

(※ま、なぜこうなる?っていう考え方自体も執着の元になってたりするんですが)

そして、この判断材料に真実を持ってきてしまうと、
判断材料というお盆の上に乗っかってしまった真実は、もう単なるレッテルだったりラベルの一つに成ってしまうんです。

実際のところ、
「私は存在しない。」
っていうのも、
「すべきことなんて何もない」
っていうのも真実ではあるんですけどね。

これを判断材料だったり、観念だったり、概念にしてしまうと、
もうその真実は消え失せてしまうんですよね〜。

色眼鏡

それはもう、
「私は存在しない」という色のついた色眼鏡になってしまうんです。
そして、その色眼鏡を通してみた世界は、その色に歪められてしまうんです。

真実と同じ言葉でも、それを色眼鏡にしてしまった時点で、
もうそれは、他のあらゆる観念と同じ色のついた何かになっちゃうわけです。

まあ、僕もなぜほぼ毎日こんなブログを書いてるの?
ってな質問をよく頂くわけですが、
答えって無いんですよね。

ただ、言葉で表現する言葉ってのはないわけですが、
言葉で表現するのとは比べ物にならない、ガツンとした答えはあるわけです。

これも言葉で捉えようとすると、
「ええ?どういうこと??わからない」
ってなると思うんですけどね。

言葉で捉えるというのは、何かしらの色を通してみるということと一緒なんです。

色を通してしか、何かをみることが出来ないっていう思い込みはね。
結局、何色を通してみたら正解なのか?という、まるで正解がどこかにあるっていう錯覚を生じさせるんですよね〜。

色眼鏡を外すとここに全てが残ります。
なぜ色にこだわらなきゃならんかったのか?って不思議に思うくらいです。

じゃあね。
「この色眼鏡が問題なのかー!ってね。よし!この色眼鏡を外して生きよう!」
思っちゃったりもするわけですが、ま、これも思考ちゃんの条件反射みたいなものでしてね。
それもまた良し!なのでございます。そして、色眼鏡は色眼鏡でまた良し!なんです。
色眼鏡サイコー!って感じで受け入れてあげたら良いんですよね。

言葉で捉えようとしないようにする必要すら無いんです。

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