Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

私は悟った!の錯覚

f:id:takuteto:20220110175939j:plain

はじめに

はいよっ!
おはようございます。
タクさんです。

ま〜僕らの思考ってね。
何に一番反応するのか?
といいますと、やっぱり自分が損なわれているかもしれない!
っていうことに、一番反応するんですよねー。

この自分というものは、なにも身体だけではありません。

自分っていうのは、実際には存在しないのですが、
存在しないがゆえに、どんなものでも自分になりうるんです。

その自分は、その時の場面によって変わります。

その時に作られている思考のストーリーの設定の中でころころと自分というものはかわるんですね。

この自分というのはテリトリーであって、
そのテリトリーの範囲が、身体であったり、自分の考え方であったり、
持ち物であったり、国籍であったり、文化であったりするわけです。

ま、そんなわけでね。
自分が損なわれるという思いに強く反応する思考ちゃんなわけですが、
この思考ちゃんは、自分が損なわれることがとても怖いから強く反応するわけですね〜。

そして、この恐怖が、最後の抵抗として現れてくる。
なーんてことがあるわけです。

 

思考ちゃんの最後の抵抗

最後の抵抗っていうのは、なにかというと、
自分という概念が手放される際に起こる抵抗のことです。

思考ちゃんは常に今の自分はこれで大丈夫か?
ということを確かめたがるんですよね。

そして、大丈夫である言い訳を探しては安心する。
なーんて事を繰り返しているわけです。

この言い訳が見つからない場合に、混乱が始まるんです。

変な話なんですが、
私はいないをちゃんと理解している私っていうのを探そうとすることで、
変にこんがらがっちゃったりもするんですよね〜。

思考の働きの中に「私」がいる

昨日の記事で、思考ちゃんの働きは自転車を漕いでるようなもの。
みたいな例えをしましたが、
この錯覚は、自転車を漕ぐのをやめたら盛大にコケてしまう!
っていう感じです。

ですが、思考の働きが止まったところで、誰もケガはしません。
なぜなら、思考の働きとは単なるイメージであり、幻想のようなものだからです。

この幻想の中に「私」という概念も含まれるわけです。

ですが、思考ちゃんの第一優先は、「私」をちゃんと維持管理すること。
これが最も優先されておりますので、この「私」をちゃんと維持しようとするとなると、
常に思考を働かせ続けなきゃならないってことになっちゃうんですよね〜。

なので、思考が止まりそうになると、

「私が消えてしまうっ!」
っていう恐怖が訪れたりするんです。

自分を維持管理しているのは誰?という矛盾

ま、消えるも何も、最初っからないわけでして、
そして、無くてもちゃんと大丈夫だったんですけどね。

でも、今まで大丈夫だったのは、ちゃんと自分を維持管理し続けていたからだ!
って、思考ちゃんは主張するわけです。

そして、この主張は思考ちゃんにとってはとっても筋が通るものになっておりますのでね〜。

その思い込みを打ち砕くのは、ちょっと無理なんですよね。

ま、実際には思考が心臓を動かしていたわけでもなく、
血液を体中に循環させていたわけでもなく、
寝ている間もちゃんと呼吸を維持させていたわけでもないんですけどね。

感覚的には、全て「自分」が「自分」を維持管理している。
っていうね。

よくよく考えてみると、矛盾だらけのことを真実だと信じ切っていたりするんです。

私は悟った!の錯覚

だからねー。
自分が手放されていく際に最も大きな抵抗として、
自分を取り戻そうとする思考の働きが起きてくるんですよね〜。

だから、私はいないを発見した「私」。
を作り上げてしまったり、
悟りを得た「私」を作り上げてしまったりもするわけです。

あ!私はいないんだ!という発見のスキを狙ってスッと入り込んでくる感じです。

すると、今度はその嘘の概念のメッキが剥がれてくる時に、
また、自分が損なわれる恐怖に苦悩しなきゃならなくなるわけなんです。

ま、そういうことなので、
私は悟りを得た!だとか、私は悟りの体験をした!
っていうのは、思考の思い込みなので、そういうのはさっさと捨て去ってしまったほうが良いんです。

これを捨てるのはちょっと惜しいなぁ〜。っていう感覚があるのなら、
この感覚こそが、私を維持管理したいという思考そのものの働きなんですよねー。

 

▼僕のfacebookページはこちら。よかったら「いいね」してね!
コメントなどでつながりましょ〜!