Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

ワンネス

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

このブログでも何度も言ってるんですけどね。
僕らが幸せを感じる時って、望みから解放されたときなんですよね〜。

欲しい物が手に入ったときに、ヤッター!って幸せを感じるのも、
物が手に入ったからというよりは、「欲しい」という不足感がなくなったからだったりするんです。

でもね。
残念なことに僕らって、何も手に入れたことって無いんですよね。
だから、何かを得た!とした時点で、その何かは徐々に失われ始めるんです。

ほら、
鉄ってあるでしょ?
あれ、ほっておくと錆びるじゃないですか。
なぜ錆びるのか?というと、鉄というのは錆びた状態がデフォルトだからです。
錆びてないのが不自然な状態なんですよね。

なのでちゃんと元に戻ろうとするわけです。
それと一緒でね。

得たものっていうのも、実は得てい無いんですよね〜。
なので、得た瞬間、失い始めるんです。

だから、欲しい!という思いが叶っても、またすぐに、足りないが出てきてしまうんです。

なので、ずっとこの足りないを穴埋めし続けなきゃならなくなるんです。

「えー!だったら、どうやって幸せを手に入れるのさ!」
って話なんですけどね。

欲しい!をやめたら、もうココにあるわけですが、そもそも思考ちゃんは欲しい!をやめることはできません。

ですが、思考ちゃんとはそういう働きであるという本質をちゃんと見抜けば、
「ああ、足りないなんてなかったし、全てはココにあるんだ!」
と見抜かれるわけなんです。

これは思考ちゃんをコントロールするということではありません。

そんな至福の中、相変わらず思考ちゃんは「足りない!」を発しますが、
思考ちゃんは私ではありませんからね。

それで良いんです。
「足りない!」と発することに、不幸があるわけでもないんです。
そこで起こっているちょっとした体感覚が思考とくっついて、不幸が演出されているわけなんですけど、

この様もまた、それはそれで良い!ってことなんですよね〜。
なので、じっとしていれば良いんです。

 

死ぬのが怖い

死ぬのが怖い!っていうのも、何が怖いのかというと、

きっと、私や今までのすべてを失うのが怖いのであり、
私のイノチが失われるのが怖い!ってことなんだと思うんです。

でもね。
私というものも、無いですし、そもそも私っていうのを手に入れたこともないんです。
また、今まで手に入れてきたものすべてというものも、手に入れてはいないんですよね。

更にいうと、イノチというものも手に入れていないんです。
だから、失うこともないんですよね。

そもそも、私もイノチも全ても、モノですら無いですからねぇ。
手に入れようがないんです。

ただただ、やってくるものを僕らは受け取っているだけですし、受け取るものをコントロールすらしていませんし、
なんなら、受け取る以前に、やってくるものと僕らは分離すらしていないんです。

ワンネス

また、

「とはいっても、今までの思い出とか、いろいろと考えることがなくなっちゃうのが怖い!」
って感じる方もおられるかもしれません。

でも、これすら、持ったことがないんですよね〜。
思考や感情も持ったことがないんです。

これらもまたやってくるものを、ただ受け取り、それを味わっているだけなんです。

なので、失うことなんて無いんです。

ま、こういうことを言ってると、
「じゃあタクさんは、死が怖くないの??」
とか聞かれるわけですが、

思考はちゃんと怖がるんです。

これは思考を今とは違うなにかに変えるという話ではありません。

これを変えようとして、なんとか怖がらない方向へ持っていこうとすることが、あるがままへの抵抗なんですよね。

そしてその抵抗は、当然のことながらうまくいきませんので終わらない探求を繰り返すことになるんです。

そもそも、思考が怖がるのを替えなくても良いんです。
たんにそれが現れているだけですのでね。

そして、僕らは何も持ったことがないけど、あらゆる現れ、あらゆる起こること、
それらすべてのポテンシャルはココにあるんです。
やってくるものと僕らは同じです。ワンネスなんですよね。

このことを理解しようとしても無理なんです。
なぜなら、思考ちゃんは、このワンネスを、やってくるものと私に分離する働きだからなんです。

でもこれもまた、ココにある全ての働きの一部にすぎないわけなんですねー。

 

↓このあたりの話の質問を目一杯してみたいっ!という方にもオススメです!

takuteto.hatenablog.com