Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

未知へのいざない

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【はじめに】

はい。
どうもおはようございます。
方向音痴のタクさんです。

僕ね〜。
思うんですけど、方向音痴の人って、
絵的な情報で場所を覚える癖があるんじゃなかろうか?
ってねー。
思ったりするんですよね。

どこの方向に向かっているのか?という意識よりも、
この景色は前に来たところかな?
この雰囲気の場所で曲がったよね?

みたいなね。

でも、結局景色って似たりよったりだったりしますし、
曲がったことを覚えてたとしても、方向を意識してないので、適当に曲がっちゃって、
あれ??こっちじゃない。
ってなったりして。

まー、僕はこのタイプの方向音痴で、地図を見ながら方向を意識するってのを知ったのは、結構大人になってからのような気がします。

みなさんは、どのような方向ライフをお過ごしでしょうか??

 

【わからないは不安】

まあ知らない場所で道がわからなくなるっていうのは、結構不安を感じたりしますよね。
僕も、結構引っ越しをしたのですが、引っ越ししたての自分の家の周りを散歩していて迷ったときはちょっとどうしようかと思いました。
今ならスマホがあるから余裕なんですが、当時はそれもなくてですねぇ。
誰かに自分の家を尋ねるわけにも行きませんし、日もくれて暗くなってきますしねー。

わからないというのは、人を不安にさせます。

ま、場所だけじゃなくわからないことというのは、僕らの思考ちゃんにとっては大きな不安要素なんですよね。

なので、常に知っておきたい。何かを掴んでおきたいというのは、防衛反応のようなものなんです。

だから常に何かをつかもう。知っておこうとしちゃうわけです。

【僕らが一番知っておきたいこと】

でね。
やっぱりいちばん知っておかなきゃいけないことって何か?
思考ちゃんが一番知っておきたいことは何か?
といいますとね〜。
それは、やはり「自分」のことなんですよね。

だから、僕らは自分のことを一番優先的に知ろうとするわけです。

では、知るというのは何か?といいますと、なにかしらの比較をかける。
ということをやるんですよね〜。

自分と何かを比べて、あーだこーだとやるわけです。
それで、自分を知るということをやってるんですけどね〜。

ま、それって本当に知ったのか?
というと、単に比較しただけですし、
そもそもその比較というのはでっちあげのようなものでしてね。
真実でもないんですよね〜。

だから、いつまでたっても、自分というものはわからないものだったりするわけです。

【全ては未知である】

ま、だからこそ余計に自分を知ろうとしますから、たくさんの比較の判断を受け続けてしまうんですよね〜。
となると、足りない自分という錯覚も色々と持ってしまうわけです。
そして、それを埋めなければならないっていうね。そういう不安も持ってしまうわけです。

ただ、比較というのも判断というのも、真実ではありません。
それは、そう信じているだけのものなんですよね。

私が自分だと思っているもの。
これもね。
実は本当に知っているのか?というと結構疑わしいものです。
よくよく観察してみると、
あれ?知っていると思っていたことって全部そう信じているだけなんじゃなかろうか?
ってな事がみえてくるかもしれません。

もちろん、自分だけではなくありとあらゆる、自分が知っていると思っていたこと。
これももしかしたら、単にそう信じているだけのことだったりするかもしれないんです。

信じるとは、単にそういうことにしておこうね〜。としているだけであって、
それはまさに、ルールのようなものなんですよね。

このことが明るみに出てくると結局全ては未知であるということも明るみに出てくるんですねー。

 

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