Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

平安でありたいという願いが、平安さを覆い隠している

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【はじめに】

ほーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

昨日はちょっと更新できなくてごめんちゃい。
ワクチンの二回目接種のあとの副反応ですかねー。
倦怠感があってお休みさせてもらっておりました。

高熱が出るってことはなかったんですけどねー。
なんだかしんどいって感じでした。

にしても、ワクチンで体調が悪くなるってちょっとヒドない??
って思ったりもするんですが、
まー、それだけ今回の流行病はやっかいだということなんでしょうかねー。

ただ、3回目はちょっとイヤかな。
しんどいもん。

 

【平安でありたいという願い】

さてさて。
僕らが一番手に入れたがっているもの。
それはもしかしたら「平安」なのかもしれませんね。

ただ平安でありたい。
そんな思いから、僕らはあらゆるものを求め、
また、それ手にできていない自分を「足りない者」とみなしているのかもしれません。

そして、「まだ足りない」といった思いは、自分に向けられ、
自分はその思いに傷つき、その傷を埋めるため、
足りないを埋める何かを求めるっていうねー。

じゃあね。
何を求めたら良いのか?
ってなると、そこで「比較」という概念が入ってくるわけですね。
比較をして良い方を手に入れたらきっと良くなるはずだ!
ってね。
ですが、比較には判断基準が必要になるわけでしてねー。
この判断基準というのはある種のルールのようなものですが、
どのようなルールを採用すると良いのか?

ってね。
もう、求めるものも多重構造になっていて、
思考ちゃんは大変忙しいことになってるんです。

忙しさのあまり、もう何を求めてるのかもよくわかんないってなっちゃってるパターンもあるんですよね。

【思考ちゃんの最後の抵抗】

さて、そんなややこしい中、やはり最後に残るのは、
「平安でありたい」という思いだったりするわけです。

ほしいのは、名声でもお金でも地位でもなく、
実は「平安」だった。
みたいなね。

そして、この「平安でありたい」という思い。

実はこの思いこそが思考ちゃんの最後の抵抗でもあるんです。

そして、この抵抗に抗えないというところがねー。
実は思考ちゃんのストーリーにまんまと乗せられているというところでもあるんですよねー。

変な話なんですけどね。
この「平安でありたい」という思いが、いまココにある平安から目を背けさせられる原因となっており、「平安でありたい」という思いが手放される時、いまココにある平安が目覚めるっていうね。
そんなパラドックスが隠されていたりするわけです。

【抵抗こそが思考の原動力】

思考ちゃんによる「平安でありたい」という思い。
これが、平安ではないという錯覚を作り出しているんです。
平安でありたいと思うからには、今が平安ではないということを証明しちゃってるんですよね。
ですが、なかなかこの「平安でありたい」という思いを手放すのには抵抗があるんです。
なぜなら、この思いを手放すということは「平安でありたい」という僕らの根本的な願いを諦めなければならない!
っていうね。
そういう錯覚を生み出すからなんです。
これを手放しちゃうと、もう平安は得られなくなる!
っていうね。そういう怖さがあるんですよねー。
思考ちゃんというのは抵抗が原動力になっております。
つまり、思考ちゃんから離れると、抵抗というものはなくなります。
そこで、最後の抵抗として思考ちゃんは「平安でありたい」という思いを持っているわけですねー。
ここが、思考ちゃんの俊逸な戦略でもあるというわけですね。

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