Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

今、ココにある平安?

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はじめに

いやぁ〜。
どうもおはようございます。

ダウンタウンの31年ぶりの漫才を見て感動しているタクさんです。

いやぁ〜。面白かったしあのスタイルが懐かしかった。
中学生くらいやったかなぁ〜。
ダウンタウンにハマりだしたのは。

みなさんのお好きな芸人さんは誰でしょうか?

ま、僕は関西出身っていうのもあるのでしょうが、
やはり人を笑顔にするを地でやっている芸人さんについては、
かなりリスペクトしております。

ぶっちゃけ、どんな悩みも笑い一発で吹き飛ばす力がありますもんね〜。

あらゆることが笑いに変えられるのであれば、
それこそ世界平和もいけるんじゃないか?と思います。

人がもつ笑うことが出来るという能力はとってもステキな能力ですもんね。

もちろん生きてりゃ不安もあるし恐怖もあるでしょう。
反面、笑うことが出来るっていうね。そんなステキな能力も持ち合わせているんです。

この笑いの能力こそ、ぼくらの希望であって、
この能力がガンガン開花されることによって、
きっと僕らのあらゆる恐怖も克服出来るんじゃないかな〜ってね〜。

 

平安はすでにココにある?

さて、
ぐっと話は変わりますが、
鳴くよウグイス平安京!じゃないですけどね。
平安はすでにココにある。
なーんて言われてるじゃないですか。

この平安。
ココにあるんだったら手に入れたーい!
って思っちゃいますよね。

ただこの平安ってね。
そもそも手に入れるものじゃないんですよね。

だって、もうすでにココに在るからです。

でもそう聞くと思考ちゃんは混乱してしまいます。

なぜなら、今、心はガッツリ乱されているからです。
つまりは、平安じゃないと思っていますからね。

なので、ココに平安があると言われても混乱しちゃうんですよね。

平安は状態ではない

でも言われている平安ってね。
状態ではないんです。

思考ちゃんは常に状態を捉えようとしてしまいます。
そして、良い状態を保とうと試みるんです。

ですが、皮肉なことに状態を捉えようとすることで、
平安を見失ってしまうんです。

そして見失ってしまうから、その平安を求めてしまうわけなんですよね。

この状態というものがね。
有るように見えて、実際はない。
つまりは幻想のようなものだということなんです。

捉えようとすると見失ってしまう

状態というものを捉えようとすると、
どうしても僕らは比較の概念にとらわれてしまいます。
そして、その比較によって良いと悪いを分けてしまうわけですが、
そもそも、この比較というものこそイメージに過ぎません。

そして、あらゆるものは常に流動的に動き続けています。
ですが、僕らが捉えようとしている状態は、一定の型に留まっているものとして捉えようとしてしまうんですね。

この型が、平安とそうじゃないを分ける概念になっているんです。

そして、この比較の概念と状態の維持にこだわることで、平安を見失ってしまう。
ということになるんです。

思考は概念そのもの

そもそも流動的に動き続けるソレに型はありません。
型がないから、言い方を変えると「なんでも無い」となりますし、
なんでも無いものはあらゆる全てである。
というなんとも掴みどころのない表現になってしまうわけなんですが、
掴もうとしなければ、もうソレなんです。

ソレに問題はありません。
なぜなら、問題というものもまた型にはめ込まないと出てこない概念だからなんです。

思考を概念から引き剥がすことはできません。
思考とは概念そのものですからね。

なので、そもそも引き剥がす必要すら無かったんです。

必要性が無いということ。
これが、ココにある平安を再発見するキーになってくれるんです。

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