【はじめに】
はい。おはようございます。
小学生低学年の頃は「パッ!」と呼ばれる口からパッと息を吐いて
牛乳瓶の蓋を裏返すゲームに青春を捧げていたタクさんです。
みなさんは、何枚くらい裏返すことができましたでしょうか?
いやー、僕らっていうか思考で世界を捉えようとすると、
どうしても比較の概念のフィルターを通さざるを得ないんですよねー。
だから、思考を通した世界というのは、比較だらけになっております。
そして、自分というものもまた、この思考を通した世界だけに存在する概念ですのでね。
常に比較にさらされているんですよ。
ただ、この自分って思考の世界だけのものですのでね。
それは演者のようなものなんですよね。
ペルソナです。
いわゆる演じる時につける仮面ですね。
にもかかわらず、この比較の概念フィルターを通した自分を本当の自分だと錯覚してますのでね。
何かと比較した場合に「足りない」自分というものを作っちゃうんですよね。
でもそれって、仮面ですので、実際に足りない自分なんて存在してないんですよね。
ただ、こういう言葉をまた、思考を通した自分。つまり仮面の自分が掴み取ろうとするからこの話ってややこしくなってるんですよね〜。
ホントはこの話って至極シンプルなんですけどね。
そもそも、比較というものは複雑なんです。
そして、真実というのは複雑さを超えたところにあるんじゃなくて、
これらを取り払ったシンプルさの中にあるというわけですね。
【価値の差はない】
だからそもそも「足りない自分」なんてものはおらんのです。
これはどういうことかというと、
お釈迦さんもイエスさんもお大尽も、あなたより優れているというわけではなく、
一緒なんですよね。
ありとあらゆるモノに価値の差なんて本来は存在してないんです。
ダイヤモンドもそのへんに転がってるペットボトルの蓋も同じなんです。
価値としてはね。
そんななか、ぼくらは「おままごと」をしているというわけですね。
この「おままごと」のルールを共有している人たちの間だけで、
何かしらのルールが有効ということになってるんです。
ダイヤモンドは価値があるというのもルールの中にある概念ですし、
お釈迦さんはエライ!というのもルールの中にある概念なんです。
【ペルソナ、仮面】
そんなルールの中に自分という仮面も存在しているわけです。
この自分というのは、今、頭の中で展開されているストーリーに応じて作り変えられてるんです。
だから、本当の自分という確固としたものって存在してないんですよね。
すべてストーリーありきなんですよ。
例えば、
家庭の中の自分と仕事場での自分ってやっぱりちょっと違うでしょうし、
友だちといる時の自分と、初対面の人と話してる時の自分もまた違いますよね。
これは、その時に展開されているストーリーが違うからなんですよね〜。
で、この中に本当の自分っていないんですよね。
【思考と自分】
もう一つ、僕らが強く自分だと錯覚してしまうのが思考なんです。
この思考というのも、何かしらの判断を通して出てくるものなんです。
本音のまま生きていたいわぁ〜。なんて思ったりする時の、この本音とはいわゆる湧いて出てくる思考のことなんですよね。
僕らは、出てきた本音を加工したりオブラートにくるんだりして、
色んな場面で演じ分けているわけですが、
これが煩わしいと感じる時に、本当の自分で生きていきたいわ〜!
って感じたりするわけですが、ここで出てくる本当の自分っていうのがいわゆる思考のなんです。
でも、これも自分ではないんです。
こいつは、あくまでも思考にすぎないわけなんです。
でね。この本音のママってのも一見、楽そうなんですが、
やっぱりこの思考も大雨になったり、嵐になったりするんですよね〜。
そうすると、この自分もまたツライと感じたりするわけです。
そんな時は逆に仕事モードに浸ってたほうが楽だったりするのも、
仕事のペルソナをつけてりゃ、思考の自分から離れられるからだったりするんですよね。
でも、心の奥では思考の自分が本当の自分だと思いこんでるから、
いつかは、この自分に戻らなきゃならないって思ったりしてね。
ホント、ややこしいですよね。
でも、これらの自分は全部仮面です。そして仮面の中に本当の自分っておらんのですよね。
じゃあ、どこに本当の自分がいるの?って思うかも知れませんが、そもそも、そんなの無いんです。
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