Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

常に現われてくる「自分はこれで大丈夫なんだっけ?」という問いと錯覚

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はじめに

ほいっ!
おはようございます。
タクさんです。

僕は結構生き物が好きでしてね。
子供の頃から常に何かしらのペットを飼っているんですが、
カメも飼っておりましてね。

このカメはかれこれ20年くらい一緒に過ごしております。

ちなみにね。

遺伝の世界では、優性遺伝と劣性遺伝というものがありまして。
優性遺伝のほうが遺伝しやすいとされているわけです。

ですがね。

優性遺伝って、字で読むと優れているように思われるかもしれませんが、
別にそういうわけではないんです。
ただ、遺伝しやすいというだけなんです。

優劣があるなんて言っちゃうと、O型の血液型は劣勢になっちゃいますからねぇ。

ちなみに、爬虫類ペットの界隈では、劣性遺伝が多く発現している個体ほど高級だったりします。

ま、遺伝で言うところの優性と劣性は、単に二組の染色体の片方だけでも発現するかしないか?だけの話ですのでね。

そもそも優劣ということではないわけですね。

 

優劣も正悪もありません

遺伝の話だけではなく、そもそも優劣なんてものはこの世には存在しておりません。
能力というものも幻想であって、この幻想はある一定の条件下でしか測れないものでしかないんです。

この個体差によって生まれる幻想って、ちょっと根強いような気がします。
この幻想を信じてしまうきらいが僕ら人間には備わってるのかもしれませんね。

そのクセのせいで、かなりの真実を見失っているような気もします。

またね。
天国と地獄という概念も嘘八百の概念でして、
こんなものも存在してないんですけどね〜。

人類史のどこかの場面で、この概念が発明されて使われ始めてから根強く信じられている信仰の一つなのかもしれません。

比較の概念と優劣

この優劣や良し悪しという概念は、比較の概念を元に生まれている概念です。
そもそも、この比較の概念というものが幻想そのものなんですが、
僕らの思考はこの比較の概念が土台となって働いておりますからね〜。

あらゆる思考の全ては比較の概念によって生成されたイメージの組み合わせによって成り立っておるわけです。

だから、思考を尽くせば尽くすほどに、比較という歪んだレンズを通して世界を観てしまうわけです。

そのせいで、真実を見失ってしまっているということでもあるんですね〜。

比較によって生み出されたレッテルを組み合わせて、僕らは様々なストーリーを作り上げるわけです。

このレッテルが概念や観念に発展していくわけです。

ま、これがないと思考の働きは成り立たないわけです。

これが分離の始まりだというわけですね。

自分はこれで大丈夫なんだっけ?という問い

ま、僕らが「自分」だとしているものもね。
比較の概念によって作られた幻想なわけです。

そして、比較によって作られた幻想であるがゆえに
僕らはこの「自分」を認識する度に、

「あれ?これであってるんだっけ?」
「これで大丈夫なんだっけ?」

ってな感じでね。

常に、自分というものを、良し悪し、善悪、正悪で確かめてるんですよね。

そしてその都度、ちょっとだけドキッとしているわけです。

これがチリツモとなってくると、結構ダルかったりしますし、
連続で、
「あ、自分はダメだわ。」
の方に判断しちゃうと、ツラさがどんどん溜まってくるわけです。

これってもうねぇ。

「どないやねんっ!」
って話なんですよ。

「なんで、自身で採用している比較の概念で、自分が苦しまなきゃならんのよ。
ええかげんにしてよ!」

って話なんですよね〜。

比較の概念は幻想でしかありません

だからね。
まずはちょっと、比較なんていう幻想は置いておいて、
ただここに在ってみる。

このお話は、こんなちょっとしたことから試しに始めてみましょうというお誘いなんですよね。

「あんた、何も得なくても、もう大丈夫やでっ!」
というのも、
そもそも採用している比較の概念が幻想だからなんです。

 

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