Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

例えようもないこと。とらえられないこと。

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【はじめに】

はい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

最近、和式のトイレってあまり見かけなくなりましたが、僕が子供の頃は普通にあったんですよね。
でね。
あのトイレですが、流すレバーが前に付いてるじゃないですか。
洋式のトイレは後ろの付いているのに。

だから、あれ?
もしかして、自分だけこっちが前だと思っているけど、実は前と後ろは逆なんじゃないの?
だって流れるのは前だから、前の方にしたほうが効率もいいはずだし、、、。

って、ちょっと悩んだことはありませんか??

ま、これが僕が味わった
こっちが前だと教わっただけで、本当のところはわからんぞ・・・。
の一番最初に感じた問いです。

その後も、もしかしたら、みんな演技をしてるだけじゃないのか?という疑いは子供の頃は結構本気で思ってたりもしたんですよね〜。

皆さんは、そんな疑いを持ったことはありませんか?

 

【とらえ方に真実はない】

さてさて、
僕らって、生まれた時はまっさらなんですが、
そのあと、あれこれと教わることによって、世界はこうなっているということを学んできたわけですが、
これって、結局、みんなが同じことを教わっているから、同じ理解をしているだけ。
という見方もできますよねぇ。

その証拠に、全く文化が違う人は、とらえ方が全然違ってきますもんね。
また、時代によってもとらえ方は全然変わってきます。

古代の世界のとらえ方と、中世の世界のとらえ方は結構違うように感じますもんね。

これって、つまるところ、正しいとらえ方なんて存在せず、
科学的に証明されることが正しいとらえ方だ!と考えている人と、
神こそが正しいのであって、科学なんてものは神への冒涜だ!と考えている人とでは、
価値観は相容れなくて、どっちが正しいって言えなかったりするんですよね。

【共有による錯覚】

これってね。
変な話、僕は巨人ファンだ!
私は阪神ファンだ!
って言ってるのと、同じようなものじゃないのかな〜って感じるわけです。

そして、巨人が好きだろうと阪神が好きだろうと、別にどっちでもいいんですよね。
そこに正しさは存在しておりませんもんね。

僕らは、生まれてこの方、いろんなことを教わったわけですが、
これは催眠にかかってきたようなものでして、
この催眠がある種の価値観となり、これが共有されることで真実であると錯覚しているだけなのかも知れませんね。

【とらえずに、とらわれずにただ在る】

どんなとらえ方であっても、そこに正しさが無いということは、
正しいとらえ方を知ろうと、その答えを求め続けていたとしても、
どこにもその答えはみつからないということでもあります。

つまり、何が正しいの?なにが真実なの?という問いに対する答えは、無いということになるわけですねー。

これは言い方を変えると、正しさや真実はとらえられるものではない。
とも言えますね。

僕らは、とらえ方にこだわりすぎて、何もかもをとらえようとしてきたわけですが、
これって、勝手な判断というイメージの枠に当てはめることによってとらえた気になっていただけで、実は何も手に入れていないし、何も取っておくことなんてできていないのかも知れません。

そして、何も捉えようとしなければ、もともとここにあった真実があらわれてくるというわけです。

常に何かをとらえようと躍起になりすぎて、何もとらえずにただ在ってみるということがとても頼りないものにみえてしまっていたんですねー。

頼りないから、何かしらの意味を欲しがってたりするわけですね。
いわゆる生きる意味みたいなものです。
そんなのなくても、もう完成されてるんですよね。

 

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