【はじめに】
へいっ!
どうもおはようございます。
タクさんです。
今日はねー。
一瞥体験と悟りはあまり関係ないよ〜的なお話をしようかなって思います。
ま、とはいえ一切関係ないっ!っていうことでもありません。
そもそも、全てはそれそのものですからね。
どんなものも、もうすでに「それ」なんです。
それが一瞥体験であろうと、日常の一コマであろうとね。
それらはフォーカスされてとらえられた一部ですのでね。
もうそれも「それ」なんですよね。
また、一瞥とは思考を一切おいておくことで見える風景です。
つまりは、真実そのものなんですけどね。
その瞬間、思考はそれを体験に落とし込んでいくんですよね。
そして、体験として掴み取ってしまうんです。
思考は一見、真実をとらえたように感じるんですが、
とらえた時点でもう違っちゃうんですよね。
するとこれはもうストーリーとなってしまうんです。
この作業はほんの一瞬で起こってしまうので、なかなか気づきにくかったりするんです。
あと、もう一つ要注意な点があるんです。
今日はこの体験による要注意な点について書いてみようかなって思います。
【無垢はどんなものも受け入れる】
ちょっと話が飛びますが、赤ん坊ってね。
無垢じゃないですか。
あれこれとうがった思考を持ってませんよね。
「えー???ほんとにぃ〜????あやしいなぁ・・・・。」
なんて思わないわけです。
だから、どんな思考でも素直に受け入れることが出来るわけです。
これは言い方を変えると、どのような洗脳も受けてしまいやすいということにもなるんです。
それが意図的であろうとなかろうとねー。
まー、言語も文化も洗脳といえば洗脳のようなもんなんですけどね。
だから、洗脳をあまり怖いと感じなくても良いんですけどね〜。
そして、この一瞥体験もまた、赤ん坊ほどじゃないにしろ、一切の思考をおいておくをやっちゃうんで、その後に入ってくる思い込みを強く握りしめてしまうっていうね。
そういうことがまれにあったりするんです。
もちろん、すべてのケースでそうなるというわけじゃないのでご安心くださいね。
ただ、私がいなくなった途端、新しい私を早急に作らなければならないっ!!!
っていう思い込みが、「目覚めた私」という錯覚を作り出すのは珍しいことではありません。
また、そのときにスピリチュアルの概念が入ったならその体験をスピリチュアルの目覚めという錯覚をとらえることになりますし、その後スピリチュアルの概念を深めていくことになると、様々な概念化がはじまり、そういう人から見ると、この体験はあくまでもスタートに見えてくるので、この体験はまだまだ始まりですよ〜。
っていうとらえ方になったりするんですよね。
ま、いずれにせよ、体験となった場合はそこにくっついた概念ごと速攻捨ててしまうのが良いんです。
【許容範囲を超えると思考は抜け落ちることがある】
ちなみにこの体験は、心の許容範囲を超えたときにもよく起こります。
よく、辛い体験が重なった末に悟りが訪れた!
みたいなね。そんな体験談って多いじゃないですか。
この場合の悟りも体験になった時点でストーリーなんですけどね。
そういうことはよく起こるんです。
また、瞑想中にも起こったりします。
これはヒトの生理現象として起こりがちなことなんですよね。
某新興宗教なんかもこの作用を知っているので、人を限界まで追い込んでその体験をみせる。
そのあと、これは尊師のお力なのだー!みたいな洗脳を植え込む。
なーんて事をやるわけです。
【全てはシンプル】
だから、体験にこだわっちゃう場合は、それもまた一つの思考のストーリーですのでね。
その思考もまた、置いておくをやってあげれば良いんです。
そのときに、これは悟りなんだ!という思い込みがあれば、それを置いておいてあげる。
また、そのときに、これは第なん段階目の悟りであり、宇宙意識の目覚めだ!みたいな思い込みがあるのなら、そのストーリーを華麗にスルーしてあげる。
これがスピリチュアルの目覚めだ!という思い込みがあれば、その思い込みを思いっきり蹴り飛ばしてやる。
これは、尊師のお力なのだー。的な思いがあれば、その思考の中の尊師を滅却する。
つまりは、瞑想中に仏に会ったなら、その仏を槍で突き刺せ!という禅の教えのとおりなんですよね。
物事はもっとシンプルです。
思考はストーリー仕立てに物事を理解し、それを共有します。
それは、それが起こっているときだけ起こり、そして消え去ります。
その一連の流れもまた、真実そのものであるわけですが、思考は一部にフォーカスする働きをするんです。
だから、思考だけではすべてを捉えることが出来ないということなんです。
思考はフォーカスする働きだからですね。
もちろん、ここに書かれている言葉も真実ではありません。
これは誰の言葉でもそうです。言葉の中に真実はありません。
なぜなら、言葉はフォーカスする道具ですのでね。
言葉を手がかりにして思考を進めようとすると真実を見失います。
それよりは、とある言葉が自分の中の思考とぶつかることによって相殺されるとき、
ファッと力が抜ける瞬間が訪れるかもしれません。
そのとき、この瞬間にただ、在ってみれば良いんです。
それが、全てなんです。
なにかしらの感覚をとらえるのではなく、なんにもない今にただ在ってみるんです。
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