Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

正しさの観念が引き起こす大きな錯覚

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【はじめに】

はい。
どうもまだ、インスタがなじまないタクさんです。

いやー、ほら、インスタってやっぱり写真じゃないですか。
今は、ライブとか動画とか色々あるんでしょうけど、
やっぱ基本は写真じゃないですか。

でもねー。
どうも僕は普段そんなに写真ってとらないんですよ。

これは昔からそうで、
旅行とかいってもあまり写真ってとらないんですよね。
自分からは。

だからね。
インスタの投稿って、できるものがないんですよねー。
みんな、色々と写真撮ってすごいな〜って思います。

だから、インスタの楽しみ方?みたいなのがいまいちピンときてないんですよね〜。

これもう、おっさんってことなんでしょうねぇ。

まあでも、やっと最近、金魚屋さんのインスタをみるのは楽しくなっております。

いやー、金魚ってかわいいわ。

 

【写真は動きを収められない】

ま、そんな写真なんですが、
走ってる人の写真ってねぇ。
撮れないですよね。

「は?撮れるがな」

ってツッコミが聞こえてきそうですが、
走ってる人を写真でとっても、その写真の人って止まってますもんねぇ。
走ってないですよね。その写真に写ってる人は止まってる人です。

何を屁理屈を!
って言われるかもしれませんが、実際は写真に写ってる人は、
止まって動かない人なんです。
これを僕らは脳内で走ってる人というように変換しちゃってるんです。

また例えばですが、
窓の外で、木が枝をしならせてブワーッって動いてるとするじゃないですか。
すると僕らはそれを見て、
「うおっ!木がうねうねとダンスしとるッ!」
とは思わないじゃないですか。

あー、風が強いなぁ。
って思うのが普通ですもんね〜。

【判断を通して観る世界】

僕ねぇ。
子供の頃、電車の窓から外の景色を観るのがワクワクして好きだったんですが、
なぜワクワクするのか?というと、街が動き出すからなんですよね。

うおー!街が動いている!
ってな感じでワクワクしてみてたんです。

すると、親は、
あれは街が動いてるんじゃなくて、電車が動いてるからそう見えてるだけだよ!
っていうんです。

その時僕は、ちょっと変な感覚になったんですよね〜。

その時は、この感覚の意味がよくわからなかったんですが、
なんでわざわざラーメンに砂糖をかけて食べようとするのよ。
みたいな感覚です。

この感覚を無理矢理説明するとすると、わざわざつまんない判断を通してモノをみちゃうと、せっかくの目の前の世界がつまらなくなってしまうじゃないか!

みたいな感じですかね。

ただ、これね。
映画見てる間に、これは映画だよっ!
って言われるのとかなり似ていて、ちょっと違うんですよね。

だって、映画は映画じゃないからなんです。

また、「は??」って言われそうですが、
ここが正しさの観念が起こす大きな錯覚なんですよね。

【正しさの観念が引き起こす大きな錯覚】

僕らってね。
目の前の世界をこうやってあらゆる観念というフィルターを使って見ています。
窓の外の木はウキウキで踊ってるのではなくて、風が吹いているからである。

電車の車窓から観る街は、街がまるで第三東京市のように動いているのではなく、
電車が動いているからである。

みたいなね。
これもある種のフィルターです。

でね。
そういったあらゆるフィルターに価値の差はないんです。
これは言い換えると、フィルターに正しいも間違いもない。
ということなんです。

正しいフィルターを採用することがより価値がある。
っていう事自体がこれまた、一つのフィルターなんです。

そして、あらゆるフィルターは幻想のようなものなんです。

僕らは知らないうちに、正しいものと間違っているものがある。
っていうね。
こういうフィルターを大前提に掴み取ってしまっているんですよね〜。

だから、何が正しく何が間違っているのか?ということを土台に物事を見てしまうっているクセがあるんです。

そして、このフィルターの檻に閉じ込められているということに気づいていなかったりするんです。

これが、単なるフィルターである。ということが明らかになってくると、
今までどれほど、この正しさのフィルターに振り回されていたことか!とビックリするかもしれません。

そして、これが単なるフィルターであることは、どれほどの安堵を与えてくれるのか!
ということにもビックリするんです。

安堵は、なにかしらのお墨付きをもらうことで得られるものじゃなく、個々にすでにあったことを知るんです。

たまにね、この正しさと間違いはないという言葉を、
無法者になれということか?
犯罪してもいいの?
みたいなこととして捉えられることがあるんですが、
そういうこととは全然違うんです。

この質問もまた、正しさを捉えるという錯覚がみせる幻想からくるものなんですよね。

うーん。

ちょっと話がとっちらかっちゃいましたが、またこのあたりのテーマについて改めて書いてみますね。

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