Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

正しい観点からモノを見るのではなく、観点は観点であるということを知る

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YAZAWA!

「ボクはいいんだけど、YAZAWAがなんて言うかな?」

というわけで、
おはようございます。
タクさんです。

冒頭のセリフは、矢沢永吉さんの有名な名言の一つです。

このセリフは、手違いでホテルの部屋がスイートじゃなくて、普通の部屋になってしまった時に出た名言なんだそうです。このセリフの後、しっかりとスイートに変更されたそうです。

ま、他には、故障したガラスの自動トビラにドーンとぶつかった時に放った、
「フェアじゃないね!」
という名言もあります。

まーとはいえ、カッコいいですよね。

僕は好きです。

まー、僕らが、自分と呼んでいるもの。
これもねー。
「YAZAWA」みたいなものなんですよね。

「こんなことできっこない!」とか、
「こんなことが起こっていいはずがない!」とか、
「私はまだわからないものがあるみたいだ!」とか、
悟りがわからないだの、非二元がしっくりこないだの、
チョコレートパフェよりもイチゴ大福でしょ!だの、

こういうことを言っているのは、僕らじゃなくて、
僕らが作った「JIBUN」が言っておるわけなんですねー。

矢沢さんのいうところの「YAZAWA」と一緒です。

一種のブランドのようなものですよね。
ルイヴィトンというブランドは、
これは高級品である!というルールを知っているもの同士の中だけで、
存在するということにしているお約束のようなものですもんね。

まさに、これが幻想である!
ということですね。
幻想だから嘘だー!ということではありません。

ただ、実体のないものは、殴りかかってはきませんからね。
実体のないものに、必要以上に怖がったり、不安がらなくてもいいよね!
ということなんです。

 

分離した自分は存在しない

よくこういう話をしていると、
「まだ、分離した自分が残っていて、
全体としての自分が目覚めないんです。
どうしましょう?」

みたいなね。
そんな質問をもらったりもするわけですが、

これもねー。
分離した自分から脱却して、全体の自分として目覚める。生まれ変わる。
みたいなね。
そんなイメージを持っておられるのかもしれませんが、
そんなストーリーは存在しません。

全体としての自分と分離した自分という二つの存在があるわけではありません。
そもそも、全体しかないんです。

自分という観点

分離した自分というのは、観点なんです。
観点とはものの見方のことなんですが、
この観点で説明するとこうなる。
といったもの。

これが、分離した自分なんですよね。

つまり、「分離した自分」という観点をもって何かを観ているということです。

これは役者でいう役どころみたいなものです。
この観点からみたストーリーが、
私がいて、あんたがいて、
私はあの時生まれて、時間が過ぎると年をとり、
そして、いずれ死んでいく。
っていうストーリーをつむいでいるんです。

この観点が消えて無くなるということではありません。
これは、単なるイメージであり、思い込みのようなものですからねー。

やらしいことをイメージしようとすれば、できますよね!

それと一緒で、とある観点からイメージする能力が消えて無くなるということはないんです。

ただ、とある観点からイメージしてるよね!ということに気づくんです。

だから、どうしたらいいのか?ということなんですが、
それは、根気よく、ワシは今、どの観点でモノを見ているのか?
ということを確かめることがオススメです。

観点には正しいも間違いもない

観点は、たんに、ものの見方でしかありません。
これに正しいも間違いもないんです。

正しいも間違いもないものを正しいとすることは、
間違っていますよね。

同様に、間違いだ!とすることも間違っています。

それは、ある種のものの見方である。これが正しいわけです。

仏教なんかで「正しく観なさい」と言われていますが、
それはそういうことなんです。

ここでお話ししているのは、こういうものの見方をしたらいいよ〜。

っていう話じゃないんです。

ですが、言葉は、ものの見方を表現するツールですのでねー。
どうしてもそういうふうに捉えられてしまいがち。
ではあるんですけどね。

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