Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

エデンの園の物語が暗示しているもの

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はじめに

ほーい。
おはようございます。
最近は水草と金魚にハマっているタクさんです。
今日も熱帯魚ショップに行ってきました。

最近は3日に一回は熱帯魚ショップに行ってる気がするなー。

みなさんはどんなアクアリウム生活をお送りでしょうか?

最近の子供って、ごっこ遊びをするんですかねぇ?
なんか、子供を見かけても、やたらゲームをやってるんですよね。

カンフーごっことかしないんでしょうか?

まー、カンフー映画自体、最近はやってませんもんね。

僕が子供の頃はジャッキーチェンブームがすごかったので、
本気で蛇拳をマスターしたい!
と思っていた時期が、僕にもありました。

 

自己肯定感

さて。
最近は、自己肯定感をあげていこう!的なお話しが流行っているようですねー。
SNSが流行ってるので、無駄に自己肯定感を下げてしまう人が増えているからでしょうか?
まー、自己なんて、肯定してやるまでもなく、
どんな自分もサイコー!なんですけどね。

起こっているのは、ダメだ!という思い込みだけであって、
これがあるから自分はいけてる!みたいなのもまた一緒で、
自己を肯定するというよりは、
逆におとしめてることになっちゃうんです。

なーんもなくて、それでサイコーなんです。

さて、この自己肯定というものは、元々は自己意識から出てきております。
この自己意識というのは、自分という一つの概念を持つことから生じています。

元々のなんでもない意識を、自己という仮の器に無理やり押し込めているって感じです。
この器が比較の概念にさらされる時、僕らは自己肯定感に振り回されることになるんです。

エデンの園のりんごの話

エデンの園の話ってあるじゃないですか。
みんな、幸せに生きていたのに、りんごを食べた途端、恥ずかしさを覚えて楽園を追放されるってお話しです。
僕は、この話も、自己意識の芽生えを暗示しているんじゃないかなーって感じるんですよね。
(もちろん!知らんけど!!)

自己意識が芽生えることによって僕らは、この自分を他人と比較し、悩みや不安を抱えるわけです。
まさに、悩みや不安のない楽園からの追放ですよねー。

思いは自分ではない

まあ、そんな自分という観念ですが、これは自分ではありません。
それは、一つの思いです。
そして、思いとは、反応に対する解釈に過ぎません。

思いの中に自分がいるのに、自分が思いを作っていると思っている。
っていう変な、るつぼにハマっているだけんです。

そして、思いをコントロールできない自分に悩んだりするわけですね。

この思いは自分が起こしているわけではありません。
だから、思いをコントロールできないことに悩む必要はないんです。

思いについては、となりの山田くん。くらいに思っておいたらいいんです。

山田くん。今日は機嫌が悪いっぽいわ!
ってな感じで、眺めておいてやればいいんです。

するとねー。いちいち思いを反芻(はんすう)しなくなってきます。

僕らは思いをコントロールすべき!という思い込みから、
コントロールできない思いを反芻しちゃったりするっていう変なるつぼにハマっているんです。

この思いはとなりの山田くんなんだ!ってね。眺めてやると、いつかふと気づくかもしれません。
ええ!!思い込みにハマるのって、まさにごっこ遊びと一緒じゃん!ということに。

僕らは、子供の頃のごっこ遊びやおままごとから卒業したかと思ってたけど、
実は、もっと真剣にごっこあそびをやってたんですよね。

かわいいですよね。

 

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