常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう
はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。
「常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう」
っていうね。
アインシュタインの名言があるわけですが、
僕らはこうやって身につけた偏見を時に愛し、そして、この偏見に惑わされたりしているわけですねー。
まー、まさに常識というのは偏見なんです。
そして、常識というのは、全ての思い込みです。
この思い込みの中には、
国や文化という概念だけではなく、
時間という概念。
私という概念も含まれます。
私がいるというのも、時間があるというのも、一つの常識であり、
そして、偏見なんですよねー。
よくね。
常識を打ち破れー!
って言いますよねぇ。
この
「常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう」
という名言も、
古い常識なんて打ち破れ!みたいなね。
そんな文脈の流れでよく引用されていたりします。
ですが、常識を打ち破るのは、これまた新しい常識であって、
これもまた、新しい偏見だというわけです。
思考ちゃんが健気で可愛く、それでいて可哀想なところは、
真実を手に入れたいと、あらゆる知識を得ようとするわけですが、
手に入れた知識はすべて偏見になってしまうというところなのかも知れませんね。
真実なんて掴み取る必要なんてどこにもない
思考は、真実を掴み取ることをできません。
これってねー。もう構造上のものですからね。
だから、これでいいんですよね。
つまり、真実なんて掴み取る必要なんてどこにもない!ということなんです。
僕らは常に正しくありたい!って思っちゃいます。
そして、正しさこそ真実であるってねー。
思ってるわけですが、そこでぶつかるのが
「真実を掴み取ることができない」
っていう挫折なわけです。
ですが、思考は真実を掴み取ることはできませんが、
あなた自身は常に真実です。
だから、残念に思う必要もまた無いわけです。
正しさからの解放
そして、この挫折は、僕らにとって自由の扉が開くということでもあるんです。
正しくあらなければならない。
これは、言い換えれば、思考によって編集された
正しい常識という偏見に閉じ込められるということでもあります。
このオリから解き放たれる。
それが、思考は真実を得ることはできないということを知ることでもありますからねー。
思考の挫折は自由の始まりであり、正しさからの解放なんです。
そして、正しい真実を掴み取らなくてもいいということは、
僕らは好きに生きていいんだという許しであり、
今まで持っていた罪悪感や後悔から解き放たれることでもあるわけです。
優しさに包まれたなら
私という概念も偏見であり、時間という概念も偏見だ。
と聞いちゃうと、思考はまるで、私もおらず、時間もないように生きようとします。
そして、この話を説いている人が、
私がいないと言っておきながら、めっちゃ「私が!私が!」ゆーてるやん!
ということに矛盾や怒りを感じたりもするわけですが、
こういう思いもまた偏見なんですよね。
思い込みは偏見ですが、そもそも思い込みに正しさを求めようとすること。
ここが的外れだったんです。
正しさよりも優しさ。
そして、優しさに触れる時に感じる心地よさ!
コレなんです。
コレを味わうことこそが生の醍醐味なんです。
正しさは時に自分や他人をムチ打つことになります。
そしてこのムチ打つ行為こそ無知からくるもので、
この無知とは、正しさや真実を手に入れることができると思い込んでいることだったりするわけですねー。
いっぽうで、優しさはあなたを許し包み込んでくれます。
まずはその優しさを自分に向けてあげればいいんです♪
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