Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

わからないが許されると思考は明晰になる

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はじめに

どーもー!
いらっしゃいませぃっ!
タクさんです。

おはようございます。

定期的に思い出す歌ってありますよねぇ。

皆さんなんかは、きっとそんな歌には素敵な思い出があったりするんでしょうねー。

もちろん、
こんな僕でも思い出の歌はあるにはあるんですが、
僕が定期的に思い出す歌は、全く思い出も思い入れもへったくれもない歌なんですよねー。

それが、木綿のハンカチーフという歌なんですよねー。
僕の親世代の歌だと思うんですけどねー。

なんていうか、歌詞ウケる!って感じで思い出してしまいます。

ハンカチをください!木綿の!!

って、素材まで指定して、ちょっと地味へのこだわりが強いなぁ。
ウケる。
なに?都会の絵具って、、、、ウケる。
そりゃーフラれますわ。
ってねー。思い出してはウケています。

いや、わかるんですよ。
人としての真実は、華美に飾り立てられたものじゃないのよっ!
っていう思いもねー。

でも、
だから木綿なの!素材は木綿なの!!木綿じゃないとだめなの!!!
ってのもまた違うやん!
やっぱ、シルクがいいやん。

華美なのがダメってのもねぇ。
孔雀のオスをディスっておるのか!
って話ですもんねー。

というわけで、なんのことやらよくわからなくなってきましたので、
本題に行きたいと思います。

今日は思考のジレンマについて書いてみたいと思います。

 

思考の働き

思考というのは、基本的に二者択一の選択という形で働きます。
二者択一というのは、正しいの間違いといった選択肢でできています。
そして、何が正しく、何が間違いなのか?といったことは、条件によって担保されております。
とある条件に沿っているなら正解で、そうじゃないなら間違い。
といったかんじですねー
なので、より正確な条件を手に入れて、正しい選択がしたいと望むワケです。
ですが、元となる条件が間違っていたら、正解を選択していても台無しになっちゃうので、常により良い条件が欲しいとも思っているんです。

そして、真実を求め、ウソを避けたいと思っているワケです。

・分離のなさを分離の仕組みで解き明かすことはできない。

ほら、悟りの話ってねぇ、ブッダが登場して以来、なぜこんなに時間が経っているのに、誰も簡潔にわかりやすく教えてくれる人がおらんのや!
って思いません?
ですが、この話は、そもそも、分離がないというのが骨子ですからねー。
思考とは分離の働きなので、わかるはずがなかったんですよね。
そもそも、この分離というのがウソだからねー。
(ま、ウソとホントというのもまた分離にすぎないわけですが・・・)

でも、思考は分離がウソだと聞くと、じゃあ分離じゃない真実を選択したい!
と思っちゃうワケです。

私がいないなら、私がいない感覚で生きていきたい!の望むわけです。
もうここで、ややこしいことになってしまうワケです。

分離のなさを選択するなんてことはありえないワケです。
なぜなら、選択とは分離の前提があって初めて成り立つものですからね。

分離されているものって存在しないんですよね。でも何かしらの分離を前提に持ってこないと思考は成り立たないんですよねー。

わからないが正解

となると、じゃあどうすればいいのよ〜!
ってね。
思考ちゃんは騒ぎ出すワケです。
だって思考は、何が正しいのかを探究する働きだからですね。
だからね。
騒がせておいてあげていいんです。
これが、正常な思考の働きなんですからね。
そして、騒いだとしても思考は決して分離のなさを掴み取ることはできないんです。
ですが、分離のなさを掴み取ることができないことは全く問題ではないんです。
逆に、掴み取っちゃう方が問題になるんですよねー。

なので、掴み取れないまんまにしておくことで、正しさも間違いもないことになります。
これで、一応は正解なんですよねー。
もちろん、正解も不正解もないんですけどね。

 

takuteto.hatenablog.com

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