Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

苦しみとは今に対する抵抗のこと、そしてその今は一つの解釈。

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車窓の景色

ほーい。
おはようございます。
タクさんです。

今日も今日とて、いろんなことが起こるわけですが、
こうやっておんなじことを書いております。

今日も来てくださってありがとうございます。

さてさて。

ま、電車の窓から景色を見た時、
電車が走っているのなら、そりゃー景色も変わってきますよね。
当たり前です。

そんな映り変わる景色を見ながら、別の景色を望むなら、
その望みは、叶えられません。

だって、別の景色は、今ここには無いものですからねー。

そして、今、目の前にある景色に抵抗する時、
僕らは苦しみを感じるわけです。

まあでも、景色ですからねぇ。
別にこの景色に苦しまなきゃならない必要性なんてないんですけどね。
ですが、この景色をまるで自分のことだと思っちゃう錯覚が、
今に抵抗するという苦しみを作り出しちゃうわけです。

 

今に抵抗する苦しみ

この「今に抵抗する苦しみ」は錯覚によって生じています。
なので、どうすればこの景色を望み通りの景色に変えられるのか?
を考えたところで、もしかしたら苦しみは一時的に解決するかも知れませんが、
それは、うまくいく時もあればいかない時もあるものです。
例えば、目の前の景色の見方を変えよう!
ポジティブな見方に変えていこう!
というのが、景色の変え方の一つではありますが、
これだと、うまくいく時もあればいかない時もあるということです。
そして、今後もまた同様に嫌な景色はあらわれてくるんですよね。

どんな景色も起こってくるんです。

問題が生じる時

問題の本質は、景色を自分だとすることにあります。
景色をどうやって自分にしているのか?というと、
ここに思考が関わっているんですよねー。

思考が自分という概念を作るわけです。
そして、思考は全てを個別に分割します。
この分離感が自分と世界を分けるわけです。

こうやって、
僕らは思考を頼りにし過ぎているので、
常に思考を通した物の見方にこだわってしまっているんです。
だから、どんな景色も自分とみなしてしまい、
都合の悪い景色に抵抗し続けてしまうんです。

思考をいったん置いておく

思考とは、景色を解釈するためのメガネのような物です。
眼鏡を通して初めて景色を味わうことができるわけですが、
いつしか僕らは眼鏡をかけていることを忘れるんですよね。
だから、いったん眼鏡を外してみるというのが、
とっても大事なことなんです。
つまり、思考をいったん置いておくということです。
これには練習が必要です。
そして、ついつい忘れてしまいがちなことでもあります。
でも、根気よく練習してみることによって、
あ、ホントだ。景色って、ボクらの実体である空間にあらわれては消えていくものに過ぎないんだ。
ということを知っていくんですよね。

観るものと観られるものが溶け合う時

このことを知れば知るほど、景色ではなく、みている者が自分だと知ることになります。
景色を自分だとみなす錯覚から目覚めていくんですよね〜。
そのうち、みている者もまたいないとなってくると、みるとみられるは溶け合っていくわけですが、それらの全ては思考で捉えることができないものですので、
考える必要はありません。
また、思考がない状態を懸命に保つという話でもないんですが、
ちゃんと思考を思考として知ることにより、それをちゃんと扱えるようになるというわけです。
ちゃんと扱うとは、思考による景色を自分に置き換えない。ということでもあるんです。

 

※この辺りの気になることをセッションでご説明いたします。
何度でもメールで相談できる特典付きです。

takuteto.hatenablog.com

 

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