ほいっ!
おはようございます。
タクさんです。
みなさんご機嫌いかがでしょうか〜?
まー、いい時も悪い時もありますよね〜。
機嫌っていうのは良いこともあれば、悪いこともある。
もうこれで当たり前でしてね〜。
天気といっしょのようなものですからね。
晴れもあれば雨も降るわけです。
雨が降った時に、
「しまった〜!雨にしてしもうた〜」
「せっかくの遠足なのに悪いことしたなぁ〜」
ってねぇ。
ま、思わないですよね。
機嫌も天気のようなものですので、
雨が降っても当然良いのと同様に、
機嫌が悪くっても当然良いんですよね。
雨が降れば傘をさせば良いですし、機嫌が悪くっても、
そうなのね〜ってね。その悪さをいさせてあげたら良いんですよね。
もちろん、わざわざ周りに撒き散らさなくても良いですけどねー。
さてさて、
僕らの目の前には、なーんでもないことが起こっては消えていっております。
ですが、僕らの思考はなーんでもないことを、なんでもないまんまに認識することはできません。
なので、起こっていることを掴み取るには、何かしらの条件をぶつけて、その条件に対してどうなのか?ということを掴み取るんですよね。
ちょっとこれだとややこしいかもしれませんが、
例えばですが、
物差しという条件をぶつけて、
これは10cmよりも大きいとか、小さいとか。
そんな感じですね。
つまり、大きいとか、小さいというものは基準となる条件をぶつけることによって生じているわけです。
良いことも悪いことも、同様でね。
すべて条件をぶつけた結果に生じていることを掴み取っているんですよねん。
なので、あらゆることは条件をぶつけて分けないことには掴みとれないんです。
そして、そもそも掴み取ろうとするからには、その行為者という概念が必要になります。
なにで、僕らは何かを認識して掴み取ろうとしている時点で、行為者という概念を採用しているというわけなんです。
認識の時点では常にこの「行為者」という概念を採用しております。
行為者という概念は言い換えると、主体と客体と言っても良いかもしれません。
なので、
私はいない!と聞いたところで、
じゃあ、その「私はいない」と言っているあなたは誰なの?
みたいなねー。
そんな疑問も生じるわけです。
主体者がいないと物事は始まらないし、
物事が起こるからにはその奥に理由となる何かか、もしくは行為者がいるはずじゃん!
ってね〜。
思いすぎているということでもあるんですよねー。
この思いが、
誰がこの世界を作っとるんや?
サムシンググレートはどこにおるんや??
みたいなね。
そんな疑問も生じたりするわけです。
運命は誰が決めているんだ?
魂のブループリントはだれが書いたものなのか?
これもまた神の思し召しなのか??
ってねー。
そう言った疑問もまた生じるわけです。
この疑問の問いを探したところで、その答えはありません。
そもそも行為者も主体者もいませんからね。
また、「いる」「いない」といった判別も、認識のために使う概念上のものでしかないので、
そもそも「いる」も「いない」もないんですよね。
でも、
思考という働き(認識)は、条件をぶつけて判断をするという働きなので、
なんでもないをしっかりと認識することはできないんです。
「いる」「いない」も
「正しい」「間違い」も
思考の認識の上で起こる機能のようなものです。
この機能が思考として起こることに、なんの間違いでもないんです。
だから思考を否定しようとしてもこれまた意味がないっていうわけでしてね。
くはーっ!どこまで言っても、それが起こってるならそれで良いのかー!
ってなことになってくるんです。
ちゃんちゃん♪
ですねー。
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