Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

僕らは個として存在したこともないし、生まれてもいないし死んだこともない。

f:id:takuteto:20200821200235j:plain

はじめに

ほーい。
おはようございます。
タクさんです。

海で泳いでいるアジの群れが、
あれだけ統制を取って動いているのって、
地上で住む僕らにはなかなか不思議に感じるものですよね。

なぜあれほど、鋭敏に一体となって泳げるのかと言いますとね。
別に、魂でつながっているからとか、そういうことではありません。

水の中では、陸よりももっとダイレクトに物の動きが伝わるからなんですよね。

隣の魚が動くとその波がダイレクトに体全体に伝わってくるんですよね。
そこで反射的に同じように動くので動きが伝播するわけです。

金魚がいる水槽をパンと叩いたら、金魚がササって動くのと同じですねー。

僕らの指先の感覚を感じるのは神経を電気信号が通ることによって感じる感覚ですが、
魚の群れは、水という媒介をつかって、それを伝え合うことができるっていうわけですねー。

空気も同じように振動を伝えることはできますが、水の方がより振動の解像度が高いんです。

ついつい僕らは、喋ってるわけでもないのに、なんであんなに連携できてるんだ?
って不思議に思いがちですが、

僕らが声をだして、「前に行くよー!次はよこー!」
ってね。コミュニケーションを取るよりも、遥かに高いレベルの、解像度の高い情報のやりとりをしているんですよね。

なので、アジの感覚からすると、自分と他人という感覚はおそらくあまり発達しないんじゃないかなー?
なんて思います。
よこにいるアジの動きがダイレクトに伝わり、自然に体が反応してそれに合わせた動きをしちゃうんですからねー。

なので、きっと寂しさといったものも感じないんでしょうね。

※アジフライ、食べたくなってきた。

 

僕らは個として存在したことはない

実は僕らも、個として存在したことはありません。
太陽や月、その他の惑星との距離がちょっとでも狂うと、
バランスを失い、地球の自転軸も変わってしまいますし、
そうなると僕ら生物の今の姿もすぐさま変わってしまいます。

そんな全体の一部として僕らも表現されているだけです。
また、一部としての「個」があるわけでもないんですねー。
全ては表現。働きのようなものですからね。

僕らは全体のながれと密接に影響しあいながら存在しております。
重力によって今の形を維持し、空気を吸っては吐き、食べ物を食べては出しています。

この全体から切り離されたことはないんですよね。

ただ、思考の中で「個」という一つのアイデアがイメージされているだけなんです。

波は起こっているけど生まれてはいない

さて、この全体は常に変化を繰り返しているとも言えますし、
また、なーんにも起こっていないとも言えます。
「なんやねん?どっちやねん!」
ってねー。突っ込みたくなるような、よく分からなさがあるわけですが、
これは、思考が何かを掴み取る働きをするからこそ、
それに合わせた表現になっているというわけですね。
いわゆる思考に対する忖度(そんたく)のようなものです。
そもそも、起こっているとか起こっていないといったような二者択一といったものもまた、
これもまた、思考の中にあるアイデアの一つに過ぎないんですね。

なので、思考ではあらゆることは起こっては消えていくように見えます。
ただ、この起こっては消えていくものはある種の表現であり、
何かが生まれたり死んだりしているのではないんですねー。

変化はしているけど、なにかゼロから生じたものではない。

何も生まれていないし、何も死んでいません。
全体は常に全体です。

水面の波がどう起こってようと、水自体は増えても減ってもいないのと同じようなことです。

ただ、思考はこれらの変化を、変化のまま捉えることはできません。
波を波のまま捉えることができないんですね。

なんていうか、ずーっと動いているものを絵として描くことができない。
といったことと一緒です。
思考は目の前のことをいったん止めなきゃ捉えられないんですね。
常に動いている波をイメージ上で、ある状態として加工するんです。
そして、その状態に意味付けして捉えるんです。

お腹の中から生まれた赤ちゃんは、単に引越しをしただけ

僕らが生まれた!としているのは、
お母さんのお腹から「オギャーッ!」って生まれた時を、
初めて、この世に生まれたと定義しています。

これは、あくまでも定義なんです。

お母さんから生まれた時、急に顔や髪の毛、手や足や体が形成されたわけではありませんもんね。

単に、居場所を移動しただけです。

その前からちゃんと体も頭も顔も手足もあったわけです。

そして、その前だって、姿や形は違えど、変化を繰り返していたわけでして、
この変化は今だって起こっているはずです。

そして、この変化を誰かがやっているわけではありません。
もし誰かがやっているのなら、自分の顔も身長も髪の毛も自分で全部決められるはずですからねー。

この変化という「生」が淡々と生じているわけです。
その「生」のなかで、一つの思考が勝手に「個」というアイデアを採用し、
あらゆるものを分割することで世界観をイメージしているだけなんですよね。

 

takuteto.hatenablog.com

▼僕のfacebookページはこちら。よかったら「いいね」してね!
コメントなどでつながりましょ〜!