手のひらを太陽に!
ってうたがあるじゃないですか。
あの、アンパンマンの作者であるやなせさんが作詞した歌としても有名ですが、
ま、あの歌の通り、
生きているから歌うし、生きているから悲しいし、
生きているから愛するんですよね。
ちなみに僕は幼稚園の時に良く歌わされたんですが、
手のひらを太陽にかざしてみても、
血潮は見えんなぁ、、、オレンジ色にはなるけど、、、。
と冷静に考えつつも、
「ちしお」という初めて聞くこの言葉の響きに、ちょっとした怖さと気味の悪さを感じたことを良く覚えています。
ほい。
というわけで、おはようございます。
タクさんです。
みなさん、イキイキと生きていらっしゃるでしょうか?
気分的にはそうは思ってなくても、
きっと心臓は、イキイキと鼓動を奏でてるんでしょうね。
気分も生の一部なら、心臓の鼓動も生の一部。
笑いも悲しみも生の一部なわけですが、
生はそもそも分かれていません。
あらゆる全てのアンサンブルの響き。
この響きこそが生ですもんねー。
この全ての響きはどんな意見も思いも寄せ付けません。
なので、僕らは一部に固執することで、そこに付け加えられた意見を掴み取っちゃうわけですが、そこで生のアンサンブルを逃しちゃうのかもしれませんねー。
あなたは生きてますかー?
と言われると、
そりゃー生きてますよね。
でもその命はどこかにあるわけじゃありません。
それは働きですからね。
電化製品は動力源によって動いていますが、
僕らの体の中のどこを探しても、命という動力源がどこかにあるわけじゃありません。
命は個々の器の中にあるんじゃなく、
命というあらゆる全てのなかの一部、
海の一つの波のように、僕らの個々も表現されているわけでして、
命自体は消えたりなくなったりはしないんですよねー。
そんな命の響き、生の響きの中で、
僕らは個別化という夢の世界を生きている気になっているだけなんです。
思考は個別化されないと認識もできず働かないので、
そもそも存在しない個々を仮定し、その個々が織りなすストーリーを、
全体性の中で観ているんです。
その観ているものは、ずっと変わらずここにいるからこそ、
あらゆる夢を見れているわけです。
それは10年前もここにあったし、今もここにあるんです。
この在るに「私」を付け加えて、私感覚として錯覚しているわけですが、
この「私」だとするものは、あるときは体となり、ある時は思考・考えになり、
またある時は、信条や心となるわけです。
そして、その体や思考、考え方、信条はコロコロと変わっているわけです。
でもずっとここに在るそれは変わらないんです。
ずっと在るのは「私」ではなく「在る」だけだったんですよね。
この在るは変わらずここにあり、同時にコロコロと変わる変化ともずっと一緒にいるんです。
変化と変わらないものがずっと一緒にここにある。
常に変化をしながらも、どっしりと変わらないわけです。
まさに、海にどんな波が起ころうが、そこにある海は変わらずにあるのと同様なんですねー。