Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

僕らは生まれてきたまんまでもう完璧です。

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完璧さの根拠は?

ほーい。
どうもおはようございます。
タクさんでございますよー。

年の瀬の頃。
いかがお過ごしでしょうか?

まー僕はといえば、
へ??年の瀬なん??知らんがな。

って感じで、平常モードで過ごしております。

さてさて、
まー普段から。
全てはすでに完璧だー。
なんていっているわけですが、

何を根拠に??

と申しますとねー。

完璧じゃないというものは全て、ある種の条件に照らし合わせた思い込みだからなんです。

完璧じゃないものを作ろうと思うと、
ある条件があって、それに沿うか沿わないか?
の判断をし、
それに沿うなら善。沿わないなら悪。
といったことを決めなきゃなりません。

これらは全て思考の中でだけ行われており、イメージに過ぎません。
つまりイメージの中でしか、完璧じゃないものって存在し得ないわけでして、

ま、言うなれば、夢の中の登場人物みたいなもんなんですよね。

 

限定された私が混乱のきっかけ

僕らは生まれてきたまんまでもうすでに完璧です。
赤ん坊は、「私には何かが足りない」といった思いは持っておりません。

僕らは思いの中にだけ、この「足りない」を持っているんですが、
これは、いろんなことを聞いたり、学んだりするうえで、
身につけ、強化してきた概念なんです。

その足りないという概念は、分離の概念によってできています。
この分離の概念は、思考のストーリーを作り出す上でどうしても必要だからあらわれているわけです。
この分離の初期段階に、「私」と「私以外」という概念があるんですねー。

この私という概念は、分離されたものであるがゆえに、足りなさを持っているわけですが、
この思考のストーリー上の私を真の私と混同することが混乱のきっかけなんです。

全体像をみるには離れなきゃみえない。

じゃあどうしたらこの混同をやめられるのよ。
って話なんですが、それはもう、混同している様子をただ観ることでしかないわけですが、
観るというのは、凝視するということでもなく、ただこの思考のストーリーから離れてみるということに尽きるわけです。

富士山を観ようとするならば、離れなきゃ全体像がよくわからんじゃないですか。

あれです。

なので、離れてみることで、自然とみえてくるんですよね。

「ただみるだけで、それがなんなのよ」
「それが、なんの役に立つのよ」

と色々な思考も起こってくると思います。
でもそれらの思考もただそのように起こってるだけなんです。

この起ってるだけ〜。がみえてくるんですよね。

曇ってくると、雨が降ってくる。滝は高いところから低いところに落ちていく。
みたいなものでしてね。
思考は、認識に名前というレッテルが貼られ、その名前を比較の概念を使って解釈し、
解釈された意味にたいして、正しいとか間違い。好きとか嫌いがきめられ、ストーリーが展開されていく。
この展開されたストーリーにフォーカスしていくことで、現実に入っていく。

こういう様子もみて取れるんですよね。

なんかね。もう環境と反応なんですよね。

変な律儀さ

今までは、起こる思考のストーリーにたいして、絶対的にその相手をしなければならないと感じていただけなんです。
僕らって、思考がこう言ってるから従わなきゃダメ。
っていう変な律儀さを持っているんです。

だから、起こる思考のストーリーを良いものに変化させなければならない!
って思い込んじゃってる節があるんですが、
そんな必要性ってぜーんぜんないんですよね。

これは、悲しいのに悲しまないようにする!
とか、怒ってるのに、その怒りを起ってないかのように振舞う!
といったような、やせ我慢ではありません。
起こっている思考を押さえ込むということではないんです。

「ただ、そう思ってるんだね。」
それで以上なんです。

そして、どんな思いが起こってもそれで良いということなんです。

それで良い!がなじんでくるとねー。
環境や習慣って変わってくるんですけどね。

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