Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

【いまここ】明鏡止水と波のおはなし

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くはーっ。
おはようございます。
タクさんです。

邪念がなく、澄み切って落ち着いた心。
そんな心の状態を明鏡止水(めいきょうしすい)という言葉で表現されることがありますよね。

まさに波がなく澄み切った鏡のような水面です。

このねぇ。
言葉の雰囲気にね。
ちょっと誤解があると思うんです。

いや、言葉自体が間違っとるんじゃー!
ということではなくてね。

この言葉は単なる比喩でしかないので、
波がたたず透き通った水面と、
思考が起こってない心の状態は全く関連性もないんですよね。

邪念がなく澄み切った心って言い方もまた、澄み切った水面をイメージさせられたりしますが、ちょっとねー。ここがねー、波は沈めなければならない。
つまり、怒りや悲しみや邪念や思考。
これらは、沈めなきゃならないんだ!みたいなね。
そんな誤解を生じさせていることにもなるんじゃないかなー。
ってね。
思うんですよね。

というわけで、今日はこの辺の誤解について書いていきたいと思います。

 

なんていうかねー。この辺の誤解って、
悟りの状態というものがあるはずだ。
みたいなねー、そんな誤解が大元にあるんだと思うんですよ。

またね。
思考や起こっていること。
これらを波に例えられたりもしますよね。
この例えは、明鏡止水という言葉とは関係ないんですが、
なんとなーく、関係のないたとえ話がイメージ上で関連づけられちゃって、
思考や戸惑い、悲しみや怒り。
そういった思いが起こっていることを沈めなきゃならない。
そして、それが完全に鎮まった状態こそが悟りの状態で、この状態を保たなければならない。
そのために、滝に打たれて思考を取り除いたり、癒しのワークをしたり、瞑想をして思考に飲み込まれない状態を維持しようとしたりするわけで、
それを極めると思考や感情に飲み込まれなくなる。
みたいなね。
そんな誤解が生まれてるのかもしれませんねー。

ま、しょっちゅう言っていますが、この話はある状態を保つということじゃありません。
明鏡止水といった状態も、喧騒といった状態も全く同じであり、今ここにあるんです。

瞑想や癒しのワークなんかで、思考や感情に巻き込まれない練習をするのも良いんですが、それはその状態を保つ練習というよりは、思考や感情はここにあって良いということに気づく準備運動のようなものなんです。

でね。
感情的なことや思考に飲み込まれちゃって落ち着かないーっ!なんて時にね。
それらを沈めることによって落ち着こうとするんじゃなくて、
これらが起こっていることを丸ごと許し包み込んでやる。
こういったイメージで練習してみるのがコツだと思うんですよね。

明鏡止水といった例え話も、波の例え話も、単なるたとえ話であって、
実際に波というものが起こっているわけではありません。

思考や感情への同一化が起こっている。
ってこともなく、そもそもそれらと同一化する「自分」なんてものも無いんですよね。

今が今のままで在って良いんです。
それがありのままであり、どう足掻こうがありのままから僕らは離れられるはずもなく、
このありのままこそが、全ての赦しであり、完全さなんです。

 

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