Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

この世はすべてフィクションである

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はい。
おはようございます。
タクさんです。

世界的に大ヒットしてる「サピエンス全史」。

 この本は、僕ら人類の歴史についていろいろと書かれているわけで、
とっても面白い本なんですが、この本でも、
僕らホモ属(ホモ・サピエンス)が発展したのは、
フィクションを作ることが出来るから。
だと書かれています。

フィクションとは、お金、国家、宗教など、この世界のすべて。
これがフィクションだというわけなんですね〜。

僕は、ある時、
「あ!みんなオママゴトをやってるんや!」
と気づいたんですが、それもオママゴトというフィクションをやっているということなんですねー。

僕の中で、全てはフィクションだったという真実への気付きはそれなりに
うおぉー!って感じでしたが、
もっとびっくりなのは、
「自分」というものもフィクションに含まれていたということです。

「ワタシはいない」
このことを聞くと、人によってはちょっと混乱するかもしれませんが、
そもそも、「いる・いない」「ある・ない」といったような判断基準すら無いんだということなんですよね〜。

この判断機能は、フィクションを作るための一つの機能だったんですよねん。

 

僕らはなぜこの世界はフィクションであることを忘れてしまったのか?

これは、簡単に言っちゃうと思いっきりのめり込でるから。

ということになっちゃうんですけどね。

のめり込むというのは、どういうことか?というと
同化するということです。

テレビ見てても、感情移入しすぎることってありますよね。
格闘技みてたら、体が動いたりねー。

それのもっと強烈版です。
強烈にクセ付けられているんですよね〜。

さてさて、
感情移入ってね。それが高まれば高まるほどどうなるのか?
といいますと、感情移入の度合いが高いほど、体の感覚を伴ってストーリーを感じることになります。
悲しい話にへ「ぇー悲しいねぇ〜っ」て思ってるだけだと、さほど感情移入はしてないですが、これが高まれば、涙が出ちゃいます。

つまり、映画の話をただ観るだけじゃなくて、体を使って体験をするんですよね。
そして、この体験があることを僕らは現実だと感じるわけです。

ストーリーだけだったら単なる妄想と一緒です。
これに思い切り感情移入して体の体験も伴うので、もうこのストーリーはストーリーではなく、現実となるんです。

そして、ストーリーには必ず主役が必要になりますので、「自分」が形成され、主役を立ち回らせるための舞台設定とその他の主役以外の者たちが作られるわけです。

この自分という仮想の器に、在るという全て。イノチ、生きているということ。
これらを代入するんですよね。

なので、自分が生きているという感覚が生まれるんです。

ホントは生きているが先立っているんですけどね。その後で自分という概念が追加されているのにもかかわらず、
自分が生きているという感覚を掴んじゃうんですよね〜。

そしてその自分にいろんな定義をつけていくんです。

この定義たちもまた、自分の一部となり、今度はこの自分が失われることに対して恐怖が演出されたりするんですよね〜。

なので、この自分を確立するためにより良い定義を求めて探求が始まるんです。

 

takuteto.hatenablog.com

 

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